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『ジョーカー』から紐解く弱者男性問題

弱者男性とは


インターネットにおいて時々、弱者男性についての問題が話題になります。

弱者男性とはWikipediaにおいては、独身・貧困・障害など弱者になる要素を備えた男性のことだといわれています。

男性の場合は行政や他の人々からの援助を得られにくく、自己責任によって社会から切り捨てられる事がよくあります。

それに加えて、ネットにおいては男性的な性的魅力の乏しさからパートナーがいない、いわゆる非モテ男性の問題と紐づけて語られる事が多く、その問題を複雑にしています。

「モテないだけでは弱者男性とはいえない」という意見も見られます。しかし、上で書いた通り配偶者がいないことも弱者男性の要素の一つです。

お見合い制度が無くなった現代社会においては、自力でパートナーを探さなくてはならない為、性的魅力の乏しさゆえにパートナーが見つからない“非モテ男性問題”に関しても弱者男性と密接に絡み合っていると私は感じます。


この記事では弱者男性を「先天的な障害があり、後天的な努力ではどうすることもできないハンデを背負っているシスヘテロの貧困独身男性」と定義します。

このタイプの弱者男性を主人公にした映画を紹介したいと思います。

『ジョーカー』
監督:トッド・フィリップス
脚本:トッド・フィリップス、スコット・シルヴァー
公開:2019年

DCコミックス、『バットマン』の人気ヴィランであるジョーカーを主役に据えた映画ですが、アメリカン・ニューシネマ的要素を多く含み、今までにないジョーカーの素顔とそのオリジンを描いたことで、日米共に大ヒットしました。

しかし、本作品の主人公を模倣した犯罪が日本においてもいくつか発生しました。

その為、「ジョーカー」というワードは「無敵の人」と同じように、社会的に失うものが何も無いために犯罪を起こすことに何の躊躇もない人を意味するインターネットスラングにも使われるようにもなります。

このように、悪い意味でも社会に与えた影響が大きい問題作でもあります。

簡単なあらすじとしては、腐敗した街であるゴッサムシティの片隅で、母と暮らす障害を持つアーサーという中年男性が次々と不幸な目に遭い、ついには自身の隠された出自を知った事で完全な狂気にとらわれ「ジョーカー」として覚醒する…といった流れです。

この映画について、今まで見えなかった社会問題を炙り出した、と称賛の声がある一方で、批判の声も少なくありません。

女性や有色人種、性的マイノリティという属性を持たず、マジョリティである白人男性のアーサーはどんなに悲惨な状況であっても、それでも“真の弱者”ではない、アーサーは彼女らに比べれば恵まれているはずだ、という意見です。

個人的には、悲惨な境遇であっても男性という属性を持っているだけで、短絡的に「女性よりも恵まれているはずだ、本人の努力が足りない」と判断されてしまう事こそ、弱者男性が有する根深い問題の一つなのではないか?と思いますが...。

今回はこの映画『ジョーカー』のアーサーを弱者男性のモデルケースとして、その母親の物語を紐解きつつ、個人的に思う弱者男性が孕む問題を考察していこうと思います。

『ジョーカー』における“真実”

まず注意しなくてはならない点として、主人公であるアーサーは“信頼できない語り手”であるということです。

これはジョーカーがトリックスター的な要素をもつキャラクターであることを考えると仕方がないことかもしれません。

しかし考察をするにあたっては、どこまでが真実なのかはっきりせずそれどころか『ジョーカー』というストーリー自体が実は“本物のジョーカー”の作り話かもしれない、という可能性まであるのはいささか不便です。

そこで、作中世界における真実はどのようなものかを監督や出演者の証言を元に探っていきます。

このサイトによれば、監督は『ジョーカー』の脚本を執筆する際、“真実はこうである”との設定を固めていたそうです。

さらにトーマス・ウェイン役のブレット・カレンが監督から聞き出したその“真実”の一部が書かれている為、引用します。

物語の背景としては、アーサーの母親はトーマスのために、彼の屋敷で働いていたという。美しい女性である彼女に、トーマスは惹かれていき、そして肉体関係を持ったんです。後になって、彼女は精神病院に出たり入ったりしていますが、僕が思うに、トーマスが彼女をそこ(病院)に入れたんでしょう。

つまりアーサーの母親とトーマスの間に肉体関係があったことは真実で間違いないようです。

これを前提にして考察していきます。

映画『ジョーカー』を母親ペニーの物語として見てみる


『ジョーカー』はアーサーという男が主人公です。ですが、ここで彼の母親であるペニーを主軸にして考えてみたいと思います。

アーサーの母親であるペニーはトーマスウェインの屋敷で使用人として働いていました。

そこで主人であるトーマスに見そめられ、関係を持つことになりますが、その後なんらかの原因で破局してしまいます。その後、ウェイン家の屋敷を離れたペニーは都会の片隅で我が子(アーサー)と一緒にひっそりと暮らすこになります。

ここで問題なのがアーサーの父親はトーマスなのか?ですが、先ほど紹介したサイトによると、トーマスの役者が“アーサーがトーマスの息子である”というのが事実であるのか、トッド・フィリップス監督に尋ねたところ、このような意味深な答えが返ってきたそうです。

「トッドの返事は、“ジョーカーがバットマンに強い憎しみを抱くだけの理由って何なんでしょうね”というものでした。つまり、ジョーカーが認知されなかった子供であり、ウェイン家から何も得ることができなかった、それが憎しみのモチベーションとして説得力があるわけです。」

この発言から考えると、アーサー(ジョーカー)はトーマスの認知されない子供であり、ブルース・ウェインと異母兄弟の関係である可能性が非常に高くなりますが、断定まではできません。

ただし...。

アーサーがトーマスの実子であろうとなかろうと、トーマスがペニーと肉体関係をもっていたことは上にも書きましたが確実であり、しかもトーマスを演じた役者は「トーマスがその後ペニーを精神病院に入れてしまったのではないか?」とまで言っているのです。 

2人の関係が不倫であること、そしてトーマスがゴッサムシティの名士であり、その名に傷がつくようなスキャンダルは絶対に起こしたくなかったであろうことを考えると、関係解消はトーマス側の都合によるものである事は、ほぼ間違い無いでしょう。

ベニーがその事に不服であったとしても、2人の間には、屋敷の主人とその使用人、と言う絶対的な上下関係がありました。無理やり別れて口封じすることは簡単であったでしょう。

ペニーは屋敷を去るしかなかったのです。

ペニーの立場に立って考えると、トーマス・ウェインの行為は非道極まるものではないか?と私は思います。
不倫をして、さらに肉体関係まで持った女性を自分の都合で捨てているのですから。

フェミニズム的な観点からみても、トーマス・ウェインという男は権力にものを言わせ下位の女性を性的に搾取しそして都合が悪くなると捨ててしまう、女性を対等な人として見ていない、有害な男らしさを具体化した存在と言えるでしょう。

さて、仮にですが...もしペニー自身が直接トーマス・ウェインに復讐する脚本であったのなら、『ジョーカー』はフェミニズム映画になっていたのではないでしょうか?

その手段が暴力的なものであっても、もしくは#MeTooのような社会運動的なものであっても「虐げられた女性が強者男性に一撃を加える」という筋書きであったのなら評価したフェミニストは多かったのではないかと思います。

まあ、そうなるとそもそも『ジョーカー』では無くなってしまうのですが、ここに『ジョーカー』の、そして弱者男性問題の本質があると思うのです。

作中において常に能動的なのは(当たり前ですが)息子であるアーサーです。

色々行動を起こしますが、そのほとんどが空回りに終わります。

ウェイン家との関係もそうです。

執事のアルフレッドには「おまえの母親はイカれてる」と追い返されてしまいます。

トーマス・ウェイン自身にも会いに行きますが、「お前は母親が昔ウチで働いていた頃にもらわれてきた養子だ。」とまで言われ、顔面を殴られてしまいます。

たしかに悲劇ではありますが、観客である我々は一歩引いた目線でそれを見ることもできます。 

なにしろ監督の頭の中にある「母親はトーマスと肉体関係にあった」という事実を我々は知り得ないのだから。

“信頼できない語り手”であり“男性”であることも手伝って、ウェイン家とコンタクトを取ろうとするアーサーを我々観客は「ウェイン家に付きまとう頭のおかしい男」と見ることもできるのです。

もし、仮にこれらの行動を起こしたのが、アーサーではなく母親のペニー自身であったらどうでしょう。

面と向かって「狂った女だ」というアルフレッド、年老いた女性を張り倒すトーマス...。

我々観客がウェイン家の人々に同情する事は遥かに困難になるのでは無いでしょうか?

『ジョーカー』は、ペニーの(実子であれ養子であれ)息子であるアーサーが主人公です。

アーサーがトーマスに会いに行ったのは、もちろん自分を認知して欲しい、救ってほしいという気持ちもあったでしょうが、1番の動機は自分の母を救いたいからでしょう。

しかし無情にもそんなアーサーの姿は傍から見れば、名家にまとわりつく不審な中年男性として写ってしまうのです。

強者男性にいいように扱われ捨てられた女性の物語であれば悲劇になったはずであるのに、次の世代、その子供の性別が男であった場合には喜劇となる。そしてその母親の過去は透明化されてしまう。

弱者男性は無から生まれるわけではありません。

もちろん現実において、全ての弱者男性の母親が悲惨な目に遭っているわけでは無いでしょう。

しかし、映画『ジョーカー』のように強者に搾取された女性の子供が、生来からの「男」という属性を持つが為に、自己責任の名の下に切り捨てられるのであれば、それは母親の悲劇までも切り捨てる事になり、結果として権力者の横暴を許してしまうことになるのではないでしょうか?

作中でジョーカー(アーサー)がいみじくも言ったように。

「すべては主観である」

“弱者男性”という属性を持つだけで、その過去にどんな悲惨な事があったのか、またその母親の境遇はどうであったのか、それを全て透明化してしまう我々観客の残酷さそのものを言い表しているように感じます。

おまけ:母親の触手としてのアーサー

作中の終盤、アーサーはあれだけ大切にしていた母親を殺してしまいます。

精神病院のカルテを見て、母親に妄想癖があり自分が養子であった事、恋人からの虐待を黙認していた事をアーサーは知りました。

母親の話してくれた事は全て嘘で、今まで騙されていた事が分かったから…というのが母を殺した1番の動機でしょうか。

(ただ、再三書いている通りペニーとトーマス・ウェインが不倫関係であったことは裏設定としては確実です。そしてトーマスの権力を使えばカルテの書き換えぐらいは容易だとは思います。)

母親に裏切られたから、というのももちろんあるのでしょうが、私としては“自由になりたい”というのが1番の動機なのではないかと思います。

古代ギリシャにて巫女キューディッペは女神ヘラの神殿へ行かなければいけなかった。
牛がいなかった為に2人の息子が母を乗せた車を引いていった。
無事についたものの二人の息子は死んでしまった。
人々は二人の名誉を称えた。

紀元前五世紀の半ば、ヘロドトスの「歴史」にこの話が登場します。  

人にとって一番の幸せな事は「安らかな死」である、という文脈において登場するエピソードです。

母親に尽くす息子は幸せである、というこの古来のエピソードから読み取れる「息子は母想いでなければいけない」という規範は、現代においても、洋の東西を問わず息づいているのではないでしょうか?

アーサーは物語終盤までその“規範”通りに行動します。古代ギリシャの母親想いの兄弟のように。しかし、アーサーは周りから称賛されるどころか疎まれ孤立していきます。

「男の子はその母親にとっての触手である」と言った人がいます。

過激すぎる表現にも感じますが、『ジョーカー』の作中内においてアーサーは母殺しをするまで、母親ペニーの“触手”であった、と私は思います。

上で紹介したエピソードにおいて、古代ギリシャの孝行息子達は巫女である母親を神殿まで背負って連れていきました。確かに美しい話でありますが、しかし見方を変えれば母親の都合の為に身を滅ぼした、と見ることもできます。

かなり過激な表現とはいえ、母親の触手はかなり的確なのではないでしょうか。

しかし、アーサーはその逸話と対照的に母親を殺してしまいます。

『ジョーカー』を模倣した犯罪者を批判する文脈の中で、アーサーがフェミサイドを行わなかったという指摘する評論家もいます。

フェミサイドとは女性に恨みを抱き、不特定多数の女性をターゲットにした殺人事件のことをいいます。確かに作中でアーサーが犯した殺人の対象はほぼ全てが男性です。母親を除いて。

私の考えとしては、アーサーは母殺しという“フェミサイド”をしていると感じます。

今まで自分を騙し、束縛し続けていた母親は彼にとって最も憎むべき女性でもあったのだから。

不特定多数の女性に暴力の矛先を向ける必要がないのです。

上で私はペニーはトーマスウェインという権力者による被害者である、と書きました。しかし同時に(養子であれ実子であれ)自らの子に嘘を吹き込みその人生を狂わせた加害者であり抑圧者でもあったと思います。

アーサーは直接的な加害者である母親を直に手にかける事によりジョーカーとして覚醒します。その後、扇動された民衆の1人が、トーマス・ウェインを射殺する事により、アーサーは間接的に元凶のトーマスにも復讐を果たすのです。

『ジョーカー』は、強者男性に喰い物にされた弱者女性での物語であり、その弱者女性であるペニーに虐待同然に育てられ“弱者男性”として育ったアーサーの物語でもあります。

先に書いたように、もし仮にペニー自身がトーマス・ウェインに復讐する物語であれば、フェミニズム映画になっていたでしょう。

そこまでいかなくとも、アーサーが母親を“許し”、“母親の為”にトーマス・ウェインに復讐する筋書きであったのなら“正しい物語”になっていたのではないでしょうか?

それはつまり、アーサーのような弱者男性の物語が政治的に正しくある為には、母親にいくら酷い仕打ちを受けたとしてもそれを許し、共に強者男性を打ち倒さなければいけない、という事になります。

しかしアーサーは母親を殺します。自らの物語から“母親”、“女性”というポリティカル・コレクトネスに必要な因子を排した事で、賛否両論の社会的な問題作になりました。

そのかわりに、いや、だからこそ『ジョーカー』はアーサーという男が母親の呪縛から解放され、ジョーカーへと覚醒する、カタルシス溢れる映画となったのです。

最後までお読みいただきありがとうございました。













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