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不条理オブ不条理な死

 身近に感じている相手が死ぬ、という経験は一生に一度が限度だと思う。特にその死が突然だった場合。
 そりゃあ、死のうと思ったことは何度かある。大学の先生は「まっとうに生きてまっとうに文学部なんかに入った奴は今までの人生で一度や二度は死にたいと思ったことがあるに決まってる」と言ってたけど。
 死のうと、死にたいと思ってしまうのは、自分の死によってダメージを受ける人間なぞはたしているんだろうか?という、自己肯定感の低さのために湧き出る疑問のせい。冷静に考えると両親とか友人はダメージを受けるに決まっているのだが、死にたい死にたいという精神状態のときはどうもそこまで想像できなくなってしまう。
 そして、明日が来るのが怖いという状態のときは「死」は「すべき選択」になってしまうのである。自分の中で。確かに「死」は「逃げ」では絶対ないけど(自ら死ぬ人は少しでも穏やかな気持ちになりたくて精一杯の勇気を振り絞って死ぬのだと思う)、だからといって「すべき選択」でもないだろう。

 高校1年の頃、大好きで大切だった人が死んだ。突然のことだった。彼はまだ17歳だった。
 周りがひたすらにうざかった。普通にしてる人たち、どうしてそんなに普通に生きていられるの。頼むからわたしに声をかけないでくれ。同情もするな。わたしのことも彼のこともわかってないくせに。そういう毎日で、しばらく身体にも不調をきたしていた。
 そのとき考えたことのひとつが、なぜよりにもよって彼だったのか?ということ。16歳だったわたしは自分の持っている知識を総動員して考えた。思い出したのは、小さいころ読んだ絵本の言葉。
 「彼は優しい人だったから。思いやりのある美しい心の持ち主だったから。だから神様がそばにおいておきたくなった」
 ばかばかしい、と思った。神様って誰だよ。その頃からあまり神様と言う存在を信じられなくなった。優しかったら、美しい心を持っていたら不条理に死んでいいのか?

 その頃はそんな怒りでいっぱいだったけど、22歳の今冷静に考えるとそもそも「死」は「不条理」なのである。だから我々は、健康な心身を持つ人であれば多くの場合「死にたくない」と、不条理に訪れる「未知」である死を恐れるのである。と思う。
 そして、我々はその不条理に抵抗しようとする。死にたくない。死んでほしくない。もし今生きていたら。
 だから「死んでほしくない」誰か、「死にたくない」自分にできることはただ「不条理オブ不条理な死に方」をしないよう守ることだけな気がするのだ。

 死にたがりのわたしは、比較的最近、一度精神的に死んだ。
 信じていた人からの言葉の暴力が原因だった。
 わたしは自分の身を守れなかった。まさかその人が自分を傷つけるとは思っていなかったから、その人の前でわたしはひどく無防備だったのだ。
 わたしはまだ生まれ直せていない。まだそのときの言葉が幻聴としてフラッシュバックするし、精神科に二週間に一度のペースで通わなければならない。元気いっぱいにならなくていいから、あの日より前のわたしに戻りたい。けど戻れる気がしない。
 でもあの時、どうすればよかったのか今でもわからない。どう考えても、身を守れなかったわたしに非はないからだ。

 自分の身を守れないのは本人のせいじゃない、と思う。自分の経験からしても。「傷つきやすい」「繊細」とかそういう、攻撃によるダメージを追いやすい性質は本人のせいじゃないし悪いことでもない。そういう性質を知っていて、明らかな刃物を持って突っ込んでくるやつもいる。どう考えてもそっちが悪い。

「不条理オブ不条理な死」から自分を、死んでほしくない誰かを守るためにできるのは「刃物を持たないこと」「自分を守れないことを責めないこと」だと思う。結局一番の武器にも防御にもなるのは想像力なのだろうな、とも。

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