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母さん産んでくれてありがとう〜薔薇とカーネーション〜

どうも姫路のhideです。お金に縛られない飲食店をしたり、悲しいを削減するオンラインサロン&シェルターを運営して頑張って生きています。
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1980年2月5日に僕を産んでくれた母は
2011年11月30日にこの世を去った。

60歳だったかな、、
僕は32.3ぐらいの時。

昨日は母の日だったんですね。
安心してください。
昔から気の利かない僕は、相変わらず何もしないままです(笑)お盆にはお墓参りに行きますね。

母さんとの思い出は、劇的なものはあまりないのだけれど、そうだなぁ、、なんだか人間ってやつは物哀しい事ばかり覚えてるもので、、そんな自分を自嘲しながら今日からも頑張ってみます。
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水商売で僕を育ててくれた母

僕が生まれた時にはもう離婚していたのかな?僕は父さんと会った事がありません。

僕には死んだと嘘をついてましたね(笑)

その嘘がバレたのは中学生ぐらいの頃で、その時には「そーなん!?まぁええけど」と、ほとんどの事に興味がなくどうでもいいというスタイルは確立されていました。

今も会った事はありませんが興味がなくどうでもいいです。生きていたりするのでしょうか、、。

ですのでいわゆる女手一つで僕を育ててくれました。

小さい頃から「スナック」という場所に連れて行ってもらってた記憶があります。
夜中の2時や3時に帰ってきて酔っ払って台所で嘔吐していたのもよく覚えてます。

父親とはお金絡みで離婚したそうで、借金も肩代わりしてたと聞きました。

話によるとギャンブルでの借金だそうで、僕のギャンブル嫌いはそこからかもしれませんね。

ヤクザ屋さんの娘さんと友達になってその方とヤクザ屋さんに利息分は払わなくていいように謝りに行ったとかなんとか言ってたな、、。

結構大変な人生っぽい。
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骨折を機に働けなくなった母

僕の誕生日のご飯を買いに行った先で骨折。
これもまたなんとも物哀しい。

それからは身体も衰えてしまって仕事に復帰する事はなくなりました。

幸い僕がもう16だったかな、働けるようになっていたので家計はなんとかなりました。
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全てを許してくれて心配もしてくれた母

高校にはなんとか行けたものの、相変わらず他人と衝突し、つまらなくなり学校にもいかなくなりました。


「あんた、学校は?」
「いかへん」
「どないするん?やめるん?」
「うん」

本当にこんな感じの会話で高校2年のゴールデンウィーク明けに辞めました。

嫌なことから逃げ続ける逃げ癖
気に入らない事を我慢できない喧嘩癖
社会人として他人とうまくいかない衝突癖

母さんはそれを一度も怒る事はありませんでした。

仕事をしてからも慣れた頃に辞め、アイツが気に入らない、俺はできる!の傲慢で不遜な態度の連続。

思わず僕の友達で当時飲食店の店長をしていた子に「この子にコミュニケーションとか人付き合いの仕方教えてあげてよー」と言ってた。

僕は「そんなもん必要ない!」
とシャットアウト(笑)

どうしようもないですね、、

母さんがそれはそれはとてもとても僕のこうした事を心配してくれてたのを知ったのは遺品整理の時でした。

日記帳に書かれていた一言
「また、ひでが仕事を辞めた。この子は社会でうまくやっていけるのだろうか?とても心配。」

小さい頃は神の子と言われ手のかからない子だったけど大きくなってから心配ばかりかけていたみたいです。本当にごめんなさい🙏
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お金がなかったことを隠していた母

家が裕福でない事は当然わかっていました。
だけど、大人になってからも貧困だった事は僕は情けない事に気付いていませんでした。

僕が母の誕生日にいくら最新の家電などを欲しがってたから好きなのを買いなよーとお金を渡してもそれらが購入されることはありませんでした。

「買わへんの?」
「うん。今はやっぱいらんわ」
「ふーん」

何と想像力のない息子でしょう(笑)

そのうち車検のお金が足りない、火災保険が払えないと言われるようになり、その都度「なんでやねん」と思いながらお金を払ってました。

お金の事にも興味がなかったから疑問も持たなかったんですね。

母さんが自己破産していたことを知ったのも遺品整理をしていた時でした。

僕には一言もそんな話はしなかった。

悪名高い奨学金なども払えなかったのかな、、僕にいたってはそんな事はつゆ知らず気に入らないから学校を辞めたりしたんだ。

その時もお金の事なんか一言も言わなかった。

僕がしきりに「学校なんて別に無理に行かなくてもいい」って言ってるのはこんな経験から(^^)
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彼女の事をとても大事にしてくれた母

僕に彼女ができるたびにめちゃくちゃ喜んで、友達のように大事にしてくれた。

ご飯作ってくれたり、高いものではないけど服を買ってくれたり、、

花が好きで趣味で家庭菜園をしていた時期があった。でも「薔薇」だけはあんまり好きじゃないって言ってた。

物哀しいnoteの中でさらに、物哀しい話でごめんなさい🙏
僕は一度、付き合っていた彼女と死別した事があり、一か月ほどひきこもっていた時があります。
そんな時に母さんは薔薇を育ててました。


「薔薇、、嫌いじゃなかった、、?」

その時は一か月ぶりに言葉を喋ったような気がします。
母さんは「あの子が薔薇みたいな子やったから 供養になるかなと思って」と言った。

めちゃくちゃ泣いた。

次の日から引きこもりをやめた。
時系列がバラバラだけどこの話は19 の時。
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突然いなくなった母

僕の人生で一分一秒忘れもせず脳内にこびりついている記憶は母さんが死んだ日だ。

昼過ぎにいつもと同じように一緒にご飯を食べて僕は職場に行った。

仕込み中に何度もなる携帯。
今のように電話がおおっぴらにオッケーじゃないからしばらく無視していた。

あまりにもしつこくなるものだから耐えかねて出たらかけてきてたのは病院。


「お母さんが倒れたので今すぐ来れますか?」

仕事を中断し、タクシーで病院に向かう途中の気持ちを今でもリアルに覚えてる。

さっき一緒にご飯を食べていたのに、僕は何となくだけど

「母さんの命はもう危ないんじゃないか?」

と感じていた。

なんで、あれほど何度も電話を鳴らす必要がある?

倒れただけならもっと落ち着いてからかけてくるんじゃあないのか?

なぜ本人ではないのか?

病院につくと、裏口から通される。
「あの、、お電話いただいた北村ですが、、」
すると何故か最初に対応したのは警察で電話で誰かに向けてこう言い放つ


「あー、さっき亡くなった人の息子さんが来たわ」


タクシーの中で準備ができていたのだろう。
心臓が大きくドクンと脈打っただけで、後は冷静だった。

突然死、急性心不全。

一応こんな時は警察の取り調べなどから入るらしい。母を亡くして最初のタスクは母の遺体を見るより先に受けた取り調べだった。

それからお通夜から葬式から、何もかもがわけもわからず間違いなく人生で1番頑張った1週間で、その時の感覚は麻痺している。

おかげで哀しむ暇もなかった。
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あれから8年

僕はもうまごう事なきオッさんになりました。

もう40です。

母さんは僕の事をこの子はどうしようもないと思っていたかもしれません。

相変わらずどうしようもないのは変わってないかもしれませんが、コミュニケーションには難があるままになんだかコミュニティ運営なんてものをしてるらしいです。

オンラインサロンって知ってますか?(笑)
あれほど他人とうまくいかない人間が300人近くの会員さんがいるらしいですよ。

クラウドファンディングって知ってますか?(笑)
あ、その前に自分のお店みたいなものを持ったらしいです!そのお店を改装するんだー!っつって500万も他人様からお金を巻き上げたらしいですよ。

電車に一人でのれるようになって
飛行機に一人でのれるようになって
なんと海外にもいきました!

タイで遊びタイ!って他人様から10万巻あげてましたよ。

最近はおやこ食堂(子ども食堂)だなんだって新聞にのったりもしたみたいです。

母さんの息子は母さんが思っているより少しだけ立派に育ったみたいで、母さんが思っているより遥かに最高の人生を歩み続けています。
母さんのおかげで、小さい頃から今に至るまで僕はずっと幸せです。
産んでくれてありがとう

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著者の主な活動

著者が運営する「悲しいを削減する」が理念の 「オンラインシェルター&サロン 黒絆」

著者の運営する兵庫県姫路市にある完全予約制パスタバルkitchen11はこちら 

話題のスナックキャンディ姫路店でもあります

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