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自認することの物神的性格について――ピエール・クロソウスキー『ディアーナの水浴』を読んで

(これは2023/09/11に投稿した記事なのですが、誤って削除したので再投稿しました・・・いま読み返すとなぜそもそも数あるクロソウスキーの著作の中でこれを読もうと思ったのか。大掴みに言えば、性自認とアクタイオンの鹿への変身という形象の関係を「物神性」の観点から掴もうとしていたのです・・・)2023/12/16


さあ語れ、衣を脱ぎすてたわたしを見たと――もしお前にできるものなら、してみるがよい! 挑発、すなわち、さあ行って言え――ディアーナの裸身を描いてみよ――わたしの色香を描いてみよ――きっとそれがお前の待っていること、お前の同朋たちが知りたがっていることだろう! イロニー、すわなち、お前にそれができるものなら、してみるがよい!

『ディアーナの水浴』宮川・豊崎訳(p.86)

オウィディウス『変身物語』のなかに登場する伝説上の人物、アクタイオン。もしその悲劇がローマの人々に語られる前に、アクタイオンがその伝説上の人物は自分のことであると知っていたとしたら、どんな物語になっていただろうか。そう投げかけるような偽物の神話がある。ピエール・クロソウスキー『ディアーナの水浴』(1956)──これは偽物の本である。オウィディウスの語るそれとクロソウスキーが書く『ディアーナの水浴』に登場するアクタイオンとの重要な違いは、後者のアクタイオンは自分が伝説上の人物であることを伝え聞いている、という点である。奇妙な言い方になるが、この本では、神話のなかのアクタイオンと、その神話の中の自分を瞑想するアクタイオンが“分裂している”。二人のアクタイオンが一致するのは、彼がただ狩りをしているあいだだけである。自分の逸話がただの伝聞でしかないことに、瞑想するアクタイオンは不満がっており、神話のなかであてどもなく森を歩くもう一人の自分に対して怯えてもいるがゆえに、彼はそのすべてを疑って、むしろそうした自分自身を破壊したがっている。しかし、狩りをしているあいだは例外である。当然、読者は、狩りをしているアクタイオンの視点のほうに移動したがる。そこで登場する神や精霊はすべてお飾りであり単純な見かけの世界であるから。だが注意するべきは、それを読者もアクタイオンも知っていてなお(だからこそ、と言うべきか)、ディアーナを「待つ」という不条理が脳裏に浮き上がってくるということである。本書の中核にある不条理は、狩りに疲れ、洞窟のなかで瞑想するアクタイオンが〈水浴〉を夢想しているあいだ、神話のなかのアクタイオンは〈水浴〉の現場に不意に遭遇することを一瞬も考えたりせずに、それを待たなければならない、というパラドックスである。この二人の――実のところ一人の――人物とはいったい何者なのだろうか。当然、読者の位置すべき視点は複雑になってくる。わざわざ女神ディアーナの怒りを買ってまで鹿の姿に変えられ、鹿狩りのために嗾けていた自分の猟犬に八つ裂きにされることを回避しようともしない、鹿を仮装するこの男とは何者なのか。『水浴』のアクタイオンは一見すると懐疑論者に見えるが、またそれゆえに利己主義的でもある。そのモットーは、いわば「疑いつつ欲せよ」である。積極的にミソジニーに身をやつし、女神の純潔さを疑いつつ女神を所有したいと欲し、自分が鹿であることを疑いつつ自分が鹿として生きることを欲し、始末に終えないところでは、自分がアクタイオンであることを疑いつつ、あの伝説の中の紛れもないアクタイオンであることをも欲している。こうした振る舞いに読者は惑わされるだろう。しかしオウィディウスが伝える悲劇の犠牲者アクタイオンとは異なり、クロソウスキーのアクタイオンはここではいっさいの安直な同情をゆるさない。彼は伝説において自らに起きた出来事、つまりこれから自分の身に起こりつつある出来事を、どういうわけか自分だけで——クロソウスキーの説明によれば、彼はディオニュソスの血縁であり、デロス島の女神の信仰(アルテミス)にディオニュソスの祭祀を持ち込もうとしたという明確な動機があるというのだが――再演したがっている。自分だけで——そう、彼はその限りで、自らの発狂を認めている。と同時に彼は鹿に変身する前から、変身を疑いつつ、鹿として生きようと欲していた。鹿を自認していたゆえに、猟犬たちに自分を追わせようともしていた。だが、こうして鹿として生きることを「自認する」とはいったい何事なのか。たんなる発狂で片付くのか。『水浴』の物語は全章節を通して、この「自認」をゆさぶりにかけている。いやわれわれのほうがむしろアクタイオンの「自認」に揺さぶられていると言うべきだろうか。一つの生き方を「自認」し、それを「寓意」として生き抜こうとするには、アクタイオンのごとき発狂だけではまだ足りないとでも語るかのように『水浴』には衒学的な神話註釈が並べられていく。しかし、おそらくクロソウスキーがダイモンの精をディアーナとアクタイオンの仲立ちとして登場させるのは単に文学上の技巧というだけではなかったはずである。ディアーナとアクタイオンを仲立ちするダイモンは、しかしアクタイオンが鹿であることを「自認」することには手を貸していない。鹿の仮装は、アクタイオンがディアーナを犯すために策を弄して考えたことにされている。確かにそうだが、鹿を「自認」する人間、そんな人間がかつていた試しがあるだろうか――こうした言葉は、いまや陳腐すぎるほどだ。今日、鹿であることを自認する人がいるとしても、その人は寓意として鹿を生きているわけではないだろう。今日、人間の一人称からその自認に何らかの寓意を読み取ることは禁じられていて、人々はすべての各人の自認を字義通りに受けとならければならないのかもしれない。だが『水浴』には“今日的なもの”などいっさい無いのである。このことを留意しておきたい――とは、そもそも問うに値しないことなのだが――。では、なにが問うに値するのか。『水浴』の何を問うべきなのだろうか。実のところクロソウスキーはすでに命題を提示しているのに、それを根本から問うまでには至っていない。

アクタイオーンは、伝説の中では、彼の見るところのものを言い表せないゆえにこそ見るのである。もし言い表すことができたら、彼は見ることをやめるであろう。けれども、洞窟の中で思いこらしているアクタイオーンは、ディアーナが水浴している聖域に断りもなくとびこんでくるアクタイオーンに、次のような言葉を吐かせるのである。わたしはそこにいるべきではないだろう、だからこそわたしはそこにいるのだ。けれども実際の体験はこういう荒唐無稽な命題に還元されるだろう、わたしはそこにいるべきだった、そこにいるべきでなかったゆえに、と。

〔引用者註:太字強調は邦訳書に倣っているもので、引用者がつけたものではない。〕

『ディアーナの水浴』宮川・豊崎訳(p.73-74),

〈ディアーナの水浴〉をこれこれの場所に位置づける必要がないと気づき、洞窟の中で瞑想することにした一人のアクタイオンは、自分の想念をありのまま、字義通りに見るがゆえに、彼が見ているところのものを言い表すことができない――あるいは内言する――だけだが、もう一人の、神話の中において森の中をあてどもなく歩むアクタイオンは、見ているものを言い表せないからこそ見るのであり、もし自分が不意に訪れる〈水浴〉を少しでも言い表すことができれば、もう見ることをやめるだろう、と言われている。しかし〈ディアーナの水浴〉と遭遇する、という時に、瞑想するアクタイオンがもう一人の神話のなかのアクタイオンに吐かせようとした言葉、【A】「私はここにいるべきではないだろう、だからこそ私はそこにいるのだ」が、実際の体験(神話のなかのアクタイオン)では【B】「私はここにいるべきだった、ここにいるべきではなかったがゆえに」という「荒唐無稽な命題」に還元されるのはなぜか、その成立する根拠とは何か、とここでクロソウスキーは問うてもよかったはずである。簡単に見ると、一方の【A】は規範命題から事実命題を導いていて、他方の【B】は規範命題から規範命題を導いている。それぞれを独立した命題として考えると、規範から規範を導き出す【B】よりも規範から事実を導き出す【A】のほうがやや滑稽に見えるのは、ある意味で事実命題から規範性を導き出しており、ここに命題の転倒が見られるからである(「だからこそ」という部分がそれである)。そう読んでみるなら、瞑想するアクタイオンがもう一人の神話のなかのアクタイオンの口で語ろうとした【A】がそもそも【B】として体験せざるをえないことは神話の中のアクタイオンには折り込み済みだったのではないか、と推論することができる。こう考えてみると【B】はクロソウスキーが言うほど「荒唐無稽な命題」にはなっていないのではないか。しかしそれが「荒唐無稽な命題」であるのは、別の理由があると思う。




要旨――ディアーナは神々と人間との中間にいる守護霊と盟約を結んで、アクタイオーンに顕われる。ダイモンは空気のような身体によってディアーナのテオファニーの模像となり、アクタイオーンに女神を所有しようという向う見ずな欲望と希望を吹きこむ。ダイモンはアクタイオーンの想像となり、ディアーナの鏡となるのである。

『ディアーナの水浴』宮川・豊崎訳(p.47)

無感動で不死の神々とも、感動的で可死的な人間とも違って「不死で感動性のある」(p.64)ダイモンの性格、言い換えるならば「感性的で、かつ超感性的」(マルクス)であるところのダイモンの物神的性格を述べているこの短い要旨は、まさに本書の核心をかたどっている。ここでクロソウスキーは、ディアーナのテオファニーの「模像」とアクタイオンの女神を所有しようとする「想像」という重要な区別を導入している。要するに、見えるものの現象形態と、言い表されたもの、あるいは言い表しうるものの幻影的形態を区別している。ディアーナを含む神々の神話的関係を、二人のアクタイオンを結ぶ物象相互の社会的関係とは別物として分けず、ともに把握することで、物神性の問題圏が現れてくる。実際『水浴』で女神による罰としてアクタイオンが鹿に変身する、という消極的なシークエンスが、偶像崇拝者としてのアクタイオンがいかにして偶像破壊者として変身したか、という積極的な主題へと変奏されている。そこで際立ってくるのが「鏡」のメタファーである。ディアーナという狩りの女神がその無用な晴朗さを取り戻すために労働の有用性を水で洗い落とす、という時にも、波に身体を浸す仕草をとるはずだが、その波がダイモンから借りたディアーナの地上的な姿を映し出す〈鏡〉なのだ。しかし、本質的に無感動的なディアーナはダイモンとの盟約から感動性を被ることによってこうした反省=鏡に満足することができず、人間の眼に見られることによって「自分の純潔が試練にさらされ」(p.51)ることをも欲している。ここでもオウィディウスの語りとはやはり趣が異なっていることが分かるだろう。女神との不意の遭遇というよりは〈ディアーナの水浴〉それ自体がアクタイオンとの利害が一致した〈鏡〉という舞台装置そのもの、要は出来レースのように見えるからだ。それはダイモンの謀略のうえで設えられた虚飾にすぎないと言っても同じことだろう。クロソウスキーはこれを「悪循環」(p.78)とも表現する。しかしアクタイオンはディアーナに――あるいは自らに?――いかなる「最大の重し」(ニーチェ)を負わせようというのか。「ディアーナとアクタイオーンのあいだには、その神学的不謹慎を開始するダイモンが忍びこみ、そして反省の中に映し出されたディアーナをこのようにして横どりするアクタイオーンはすでに、女神の最も内奥の単一性に損傷を加えているのだ。あるいはむしろこの単一性は彼の手をのがれ、そしてダイモンの複雑性がそれに取って換るのである。」(p.68)。物神性の問題として現れる可視的なもの(現象形態)と言表可能なもの(幻影的形態)の区別は、アクタイオンが「字義通り」に祭祀として想像するディアーナのもろもろの仕草の描写により引き裂かれる。クロソウスキーがアクタイオンを二人の引き裂かれた人物として描いたのは、こうした「《伝説の》場面の改竄」(p.79)を、クロソウスキー自身が確信犯的に遂行しているからである。アクタイオンは鹿に変身する過程で、もはやこうした見ることと語りうることの差異も識別できなくなっていると推察するのは容易である。しかし、もし初めから識別できていたとしたら、鹿を「自認」することもなかったのではないか。「なぜならディアーナはディアーナであるならば生きた牡鹿を剥製の牡鹿と完全に区別することができ、そこ、洞窟の中で彼女を待っているのが牡鹿ではなくひとつの仮面、みずからの淫蕩さに仮面をかぶせた一人の男であるということを予めしっているはずだからだ」(p.96)。アクタイオンとディアーナの邂逅から引き出せる凡庸な事実は、実際それだけではないか。見えるものと言いうるものの差異は「自認」しえない、という事実。クロソウスキーがどこまでそれを自覚していたかは問題ではない。アクタイオンを瞑想するクロソウスキー自身もこの差異に引き裂かれながら、ついにアクタイオンを「自認」するには至らなかったはずだからである。ここでは、つまりダイモンがアクタイオンとディアーナの遠すぎる距離のなかに想念として入り込むように、アクタイオンとクロソウスキーを隔てている距離から物神性の問題が生じている、ということを確認すれば充分である。これはメタな推論と言われるかもしれないが、私は一つの凡庸な事実として捉えるべきだと思う。かくしてクロソウスキーは『水浴』において、可視的なものと言表可能なものを識別できない人間の典型として、アクタイオンを寓意化することができた。裏を返せば、寓意にしか至らないような「自認」のもつ「荒唐無稽」さをアクタイオンのうちに発見したのである。しかし……

いったいそのことが出来事の流れにおいてなにかを変えるものだろうか?

『ディアーナの水浴』宮川・豊崎訳(p.96)