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陰の大森と陽の大森


職業訓練を受けていた時の勤怠管理は勤務開始と終了時間を所定の用紙に書き、その横に印鑑を押すアナログまっしぐらだった。
週末にまとめて書くことは許されず、毎日勤務終わりに書いては事務室に入ってすぐ近くの棚に置いてある書類ケースに入れる。

その日も勤務を終え、9時18時、1時間休憩、ハンコ、としみついた動作をして事務室に入った瞬間、

「大森さんいるじゃん!」

と大きな声で名前を呼ばれて驚いた。
え?わたし、なにかしてしまいましたか?

「ねぇねぇ、大森さん。俺印鑑忘れちゃってさ、貸してくんない?」

誰ですか、あなた。

目の前のわたしと同い年か、1つ2つ年下に見える男性。

わたしはあなたを知らない。
一方的に他人に名前を知られるほどわたしは優秀でもないし、美人でもない。

たぶん、私が入る寸前の事務室では男性大森が講師に「印鑑忘れちゃったんすよー」なんて軽い調子で話していたんだと思う。
そんなタイミングで女大森が来たから、「大森さんいるじゃん!」と講師の声が大きくなった。

男性大森は持ち前の明るさなのか、このチャンスは逃すなと思ったのか、初対面であるわたしにすぐ近づいて、印鑑を貸してくれと頼んできた。

最悪だ、と思った。
印鑑を貸すくらいほとんど減るもんじゃないからいいのだが、初対面の人間に対する態度じゃない。もっと申し訳なさそうにしてくれ。
貸してもらえて当たり前のようなその態度、申し訳ないけれどわたしは苦手だ。

もし私が印鑑を忘れたら、100均に買いに行く。実際、同じビルの一階にはダイソーが入っている。
同じ苗字である大森という人が隣のクラスにいると知っていても、その人に借りるなんて絶対嫌だ。

なんて思いながらも、わたしは男性大森に印鑑を貸した。
持ってるのに貸さなかったら、とてつもなく性格の悪い奴になってしまう。

周りの講師は「ごめんねー、大森さん」ってどこか楽しげにしながら男性大森の代わりに謝り、男性大森には「よかったね、気をつけなよ」と言っている。

印鑑を忘れた時、同名の人に臆せず借りに行けるタイプと、100均に買いに行こうとするタイプ、どちらが幸せになれるかといったら、完全に前者だろう。

男性大森はわたしから印鑑を借りたことをきっと覚えていない。
逆にわたしは、わたしが事務室に入った瞬間のわずかな盛り上がりを含めてこの出来事を覚えている。
それはきっと、じぶんでは一生できないことをノータイムでできる男性大森への憧れがあるからだろう。

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