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味蕾diary第11回【ドーナツ】

子供の頃、ドーナツには不思議な力が
あると“信じていた”

“信じる”という言葉について
元子役の芦田愛菜さんが語られた内容が
一時期話題になった。

「『その人のことを信じようと思います』っていう言葉ってけっこう使うと思うんですけど、『それがどういう意味なんだろう』って考えたときに、その人自身を信じているのではなくて、『自分が理想とする、その人の人物像みたいなものに期待してしまっていることなのかな』と感じて」
「だからこそ人は『裏切られた』とか、『期待していたのに』とか言うけれど、別にそれは、『その人が裏切った』とかいうわけではなくて、『その人の見えなかった部分が見えただけ』であって、その見えなかった部分が見えたときに『それもその人なんだ』と受け止められる、『揺るがない自分がいる』というのが『信じられることなのかな』って思ったんですけど」
「でも、その揺るがない自分の軸を持つのは凄く難しいじゃないですか。だからこそ人は『信じる』って口に出して、不安な自分がいるからこそ、成功した自分だったりとか、理想の人物像だったりにすがりたいんじゃないかと思いました」

https://toyokeizai.net/articles/-/374895?display=b

あまりにも含蓄ある内容で
僕の心にも残っている。

この引用における対告衆は人間だが、
無機物にも部分的に当てはまる話だと思う。

話は戻す。

子供の頃、我が家では母がたまに
今は亡きミスド鎌倉店でドーナツを
家族に買って帰ることがあった。

我が家は当時、両親、祖父母に僕と姉2人の
計7人が住んでいた。
7人が共に生活をしていると流石に
小さな争いは絶えない。

そんな小さい争いもたまに母がドーナツを
買って帰り、食卓に並べると
今までの険悪な空気が嘘のように
みんな楽しい雰囲気になる。

1発で形成を逆転できる徳政令のような
そんな力があの穴の空いた小麦粉の塊には
ある気がしていた。

なぜなのか、ドーナツには華やかさがある。
種類も豊富でそこでまた争いが起きても
おかしくないのに、ドーナツの種類で
家族と争ったことはなかった。

一度想像してみてほしい。

ドーナツを食べながら喧嘩できますか?

想像するとかなり滑稽であったと思う。
そう。
ドーナツは楽しい時にしか
そもそも食べれないものなのだ。

大学を卒業し、元相方と同棲をしていた頃に
相方がドーナツを買って帰ってきた。

当時は、コンビもうまくいっていなくて
やる事も沢山あった。
そんな状況で元相方はドーナツを買ってきた。

まず、ドーナツを買ってきことに
少しムカついた。

こんなに大変な時に、あんな華やかなものを
食べたら余計に自分達が惨めになる気がした。

しかし、もしかしたらこんな状況でも
ドーナツならあのドーナツ様なら
また一瞬でも楽しい空気にしてくれるのでは
そんな期待感もあった。

一緒にドーナツを口に運ぶ。
まったく..全く、、、楽しくない。

本当に、美味しいだけ。
美味しいは美味しい。

あの頃の心に大ダメージを負っていた僕らに
ドーナツの魔法などホイミ以下で応急処置にすらなっていなかった。

最近、元相方とレンタカーを借りて外に繰り出し、ドーナツを食べた。

最高に楽しい。

やはりあの頃は狂っていたんだと確認し合った時間は楽しいだけじゃない、何かがあった。

冒頭の芦田愛菜さんの“信じる”の定義
に合わせて考えてみる。

僕はドーナツを限られた状況でしか見えておらず、ドーナツに存分に期待していた。
期待していたからこそ、裏切られたような気分になった。

しかし、ドーナツの別の一面をみただけで
むしろ、その一面を見てもなお
元相方と最近一緒に食べたドーナツの味を
知ることで本当の意味でこれから僕は

ドーナツを信じている。

と胸を張って言える自分になれた気がする。

みなさん。
僕は、ドーナツを信じています。

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