バズる(Buzzる)について本気出して考えてみた

 ところで、人間誰しも「バズる」ということに憧れているはずだ。

 一昔前まではモデルだったり芸能人だったり社長だったり、ある程度の有名人でないと自分の発言が周知されるなんてことはなかった。しかしSNSが普及しきった現在、誰にも知られていない誰かの言動が瞬く間に広がっていく光景は珍しくない。

 有名人ではない自分のことがネットの海を駆け巡り、様々な人がそれを見てくれるというのは大いなる快感(と若干の恐怖)をもたらしてくれるだろう。バズるの基準はおそらく人によりけりで、多くの場合はTwitterでの発言がRTされまくるとか、投稿した動画が話題になるとか、ねとらぼから取材が来るとか、そんな感じだと思う。

 バズるという言葉が一般的に使われるようになったのは割と最近のことだと思うが、バズる快感というのはなにも今特有のものではない。実際今までの人生、色んなところで「バズる」を経験してきた人は多いのではないだろうか。

 例えば、小学生の頃を思い出していただきたい。クラスの人気者、というのはいつの時代もどこの地域でもいただろう。
 今これを読んでいるあなたがそうだったかもしれないし、逆に僻んでいた人なのかもしれないが、とにかく絶対にいたはずである。本当にいなかったならごめんなさい。

 さて、そんなクラスの人気者たちは「バズる」感覚を肌で感じていたはずだ。小学校という小さなコミュニティにおいては、基本「人を笑わせる」ことができれば人気を獲得できる。
 もちろんイケメンだったりスポーツができたりする人たちも人気ではあるのだが、性別問わず人気になるには「笑い」が一番だ。その笑いも単純なもので、一発ギャグだったり体を張ったやつだったり、悲しいかな自虐で笑いをとっていく者もいただろう。
 そしてそのどれもが人を笑わせるための「フック」を含んでおり、これがバズの引き金になる。数人の男子グループの内で出来たギャグは一旦は仲間内で流行る。しかし大体の場合、それをパクり我が物顔で他の友達に披露する輩が現れ、男連中は皆それで笑うようになる。そのうちクラス中の皆がギャグを知っている状態になり、とりあえずそれを言っておけばその場が湧くという、便利な感じになる。

 この、仲間内→男子内→クラス内と流行っていく過程、これも「バズった」と言えるのではないか。今となってはどんなギャグが流行ってたかなんてもう全然覚えてないので、本当に面白かったものが流行ってたかというとそれは不明だが、とにかくそういう事例はたくさんあったはずだし、なんなら、小学校に限らず、学生のうちは結構あるケースだと思う。

 しかしそんな「バズり」にも終わりが来る。飽きられたり、発祥人の元を離れすぎたりしたら、みんなバズったことを忘れる。これは純粋にコンテンツの摩耗、つまり面白くなくなったことが理由である。これに関する有名なコピペがあるので載せておく。

【コミュニティの一生】

面白い人が面白いことをする

面白いから凡人が集まってくる

住み着いた凡人が居場所を守るために主張し始める

面白い人が見切りをつけて居なくなる

残った凡人が面白くないことをする

面白くないので皆居なくなる

 まさにこれ。自分で出してしまった分かりづらい例に乗っかると、面白い人が面白いことをし、それがウケたので凡人がパクり、どんどんギャグの改変が起きてきて面白い人はつまんなくなっちゃって、その人がやんなくなったから皆やらなくなり、「あったねそんなギャグw」と言われるようになるのだ。しかし、当の本人は一時的とはいえ気持ちが良かったはずである。

 そしてこれはTwitterにおいてめちゃくちゃ顕著で、びっくりするほどネタの循環が早い。クッパ姫だの5000兆円だの水素の音だのはだしのゲンコラだの、お前ら絶対もう使ってないだろ。モルカーも既に廃れた。

 そんなわけで、インターネットの中のバズ、というのは一過性のものが多い。それでも、人の承認欲求が消えることはなく、これからも数多のバズが生まれ、そして消えていくだろう。

 しかし宗教というのはすごいもので、当初の考えと全然違った形になってもしっかりと残っている。イスラム教なんて、ムハンマドの当初の考えがバズった結果である「コーラン」を無茶苦茶に曲解して今在るのに、未だ根強い人気を誇っているというのは驚異的である。しかしもう既にムハンマドが言ったことからはかけ離れ、本人はつまんなくなって草葉の陰で泣くどころか草葉の陰にすらいないかもしれない。キリスト教はまだギリセーフ?なのかな?私は知りません。

 言いたいことがなくなってきたのでここで筆を折ることにする。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?