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#1「忘れ咲き」歌詞レビュー2004年11月23日

今読み返すと恥ずかしいこと書いてますねw
まあ黒歴史ということで
この歌詞から本格的にはまりました。
歌詞を聴かせる曲が減っていた時代に思わず歌詞に惹かれた曲です。
もともと日本語が好きなので、来生えつこさんとか阿木燿子さんとか綺麗な日本語を使われる作詞家さんが好きだったので、なんか久しぶりに宝物見つけた気分でしたね。もっとも来生えつこさんとか阿木燿子さんと比べるとかなりひねくれた歌詞やメタファーが多くて違う楽しみもありました。
興味がある方はyoutubeなどでどうぞ

GARNET CROWのニューシングル「忘れ咲き」評判高いです。
好きな人もいれば嫌いな人もいる。感じ方だって人それぞれだし、作品の意図なんて結局は書いた本人しかわからないわけだから、基本的には皆が私はこう感じました。ってことで良いのではと思ってます。
「私はこう感じました。」って言うのに「それはちゃうで~」と突っ込むこと自体がナンセンスであるわけで、どんなに2ちゃんで叩かれようが好きなものは好き!で良いと思う。
ということで、基本的にはあくまで私見としての感想は言うけど、いわゆるレビューだったり批評だったりしたものをちゃんと書くことを避けてきたし、他の人のレビューもある程度うんうんとそれぞれ納得できるところが必ずあったりしたんですけど、なぜか今回の作品については「あり~?」と思うことが多く、「こんな感想を持つのは俺だけか~」みたいなツッコミでちょっと自分の考えを整理するという目的ということで、今回は一発レビューなんぞをまじめに書いて見ようと思い立ちました。

小生のブログを訪問される物好きな方は、あくまでも私見ですので、こんなふうに捉える奴もおるんやな~という事で笑って頂ければ良いと思ってますし、基本的に「歌詞偏重型日本語フェチ」ですので、レビューそのものの内容は歌詞側からのアポローチとなっていることを前提としてお読み頂ければと思います。

「忘れ咲き」
人は記憶をプレイバックさせた時、実は時間というフィルターと都合の悪いこと、悲しいことを忘れ美化させるというフィルターによって、かなりの部分をいわゆる「美しい思い出」として再編集されてプレイバックさせます。
孤独、弱気など特に心が弱った時には、その現実から逃避するように、楽しかったあのころ、素晴らしかった日々の記憶が次々と蘇り「美しい思い出」が忘れ咲いてきます。
愛さなければ良かった。恋などしなければ良かったと。ただ遠くから見つめているように、ただ好きという感情だけでいればこんなに苦しむこともなかったろうにと。

「好き」が「愛」や「恋」のように相手とのコミュニケーションが発生し現実として認識された瞬間に、それは永遠に変わらないのものから変わりゆくものへと変化してしまう。
で、この現実認識が実は曲者で、おのおのの認識している現実が実は異なっている為にそれは永遠に続くものではなくなってしまうわけですね。このあたりに実は哲学的なテーマが隠れていたりします。
自分が認識している現実は本当にそこに存在しているのか?自分の愛している人は本当に存在しているのか?愛は存在しているのか?という問いかけになってきます。
そうであれば、いっそ最初から、ただ好きという現実感の無い認識の方が良いなあと。

自分の周りには実は確かなものは一つもなく、現実にそこに存在しているものとして見惚れるふりをし、現実に存在していると認識したくないからこそ、傷つけないように、傷つかないように接する。そうすれば耐えられる。
名付けることによって自分の中でそれが現実として認識される。愛という名前を持った愛という現実認識。ならば名付けまいと。ただ好きでいるだけの方が良いなあと。

関わらずに生きて行けたらどれだけ楽なのかと想いながらも、それでも人として生きて、何かに関わって生きていく。心が弱くなって「美しい思い出」が忘れ咲いてきて、関わりを求めたくなる、人恋しくなったとき、それをぬぐえる強さが自分に持てるだろうかと。
でも今は忘れ咲いた美しい思い出が自然に消えてゆくまで、身をまかせていよう。今宵だけは。

美しいバラードのメロディーと中村さんの押さえたボーカルにのって、美しい日本語を使って書かれたこの歌詞は、見事なほどにオブラートで包まれ、懐かしい思い出、やさしい思い出に身をまかせる人恋しさの歌に変化をとげてしまう。
しかしながら、その実、孤独を愛しながらも孤独を寂しいと感じてしまう自分自身の弱さを、現実認識という哲学的テーマの上で展開しています。
美しい曲と詞に隠されることにより表面に出てこないだけで、実はAZUKIさんの詩の持つ無常観や孤独感はむしろ過去の作品よりも強く感じられます。まさに美しい花には毒があると言った作品でしょう。

この曲をこんなふうに解釈するのは、私自身が歪んでるせいかもしれませんが(笑)こんな解釈もあるんだなあとお読み頂ければと思います。自分的にはこういうAZUKIさんの歪みっぷりがとても魅力的に感じるんですけどね。って
実は歪んでないのかもしれませんが。AZUKIさんは(笑)

余所でコメントさせてもらったのですが、今回の3作品哲学的な背景を感じます。
言語のコミュニケーションの道具としての言語ゲームや現実認識など、ヴィトゲンシュタインなどの哲学者の影を感じるのは私だけでしょうか(笑)

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