ちくわぶ(小説)

父は太郎を呼んだ

外は真っ暗で屋台だけが明るかった

屋台というのも初めてなら

おでん屋というのも初めてだった

何がいい、と聞かれても

わからないのだから答えようもない

それで父は適当に頼んだ

その中にちくわぶがあったのである

汁の染み込んだそのちくわぶは太郎にはとても美味しく感じられた

なるほどおでんとはこういうものか

太郎の頭にはちくわぶの味だけが鮮明に残った

しばらくしてまた父が屋台に連れて行ってくれた

何がいい、と聞かれて

ちくわぶを思い浮かべたが

ちくわぶという名前がわからない

あの、あの、あの、と小さな声で話す

どう説明してよいかわからなく困っていると

別の客の皿にちくわぶがあった

あれ、と太郎が言った

ちくわぶか、と父が言った

ちくわぶ頂戴、と父が店主に言った

ちくわぶと言うのか、と太郎は思った

太郎にとってちくわぶは大きく食べがいがあったし

なんとも言えないおいしさだった

しばらくしてまた父と屋台にいった

何がいい、と聞かれて太郎は言い淀んだ

ちくわぶ、という名前が思い出せなかった

ちくわ、と別の客が声に出したのを聞き

そうだ、ちくわだと思った

ちくわ、と太郎は言った

ちくわか、と父は言った

出てきたのは太郎が思っていたちくわぶではなく

ちくわだった

これではない、と太郎は思った

思ったが黙って食べた

少しもうまいと思わなかった

しばらくしてまた父と屋台へ行った

どうしてもちくわぶという名前が思い出せず

半分違うような、それでも半分は合っているような気持ちで

ちくわ、と太郎は言った

出てきたのはちくわだった

太郎は落胆した

しばらくして屋台ではなくきちんと店を構えたおでん屋にも連れて行かれた

坊っちゃん、何にします?と板前が言った

太郎は少し考えて

あの、細長くて穴の空いた奴、と言った

ああ、ちくわね

ちくわではないとは言えなかった

ちくわぶという名前がどうしても思い出せなかったから

太郎は黙ってちくわを食べた

うまいか、と父が言った

太郎は首を傾げて曖昧な様子をした


ああ、どうしてちくわぶという名前を覚えられなかったのだろう

おとなになって太郎は思った

あれほど食べたかったちくわぶは今食べてみると

大してうまくもないのである

ただの小麦粉の塊である

子供の頃、自分はなぜあれほどちくわぶを食べたかったか

もうそれはあまりにも昔のことで

おとなになった太郎にはよくわからなかった

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?