震災のあった夜
東日本大震災のあった日は、母の誕生日だった。
わたしは大学生で、学校の近くののマンションに一人暮らしをしていた。
震災のあった日もマンションにいて、2階だったが大きく揺れた。
学外展の準備をしていて、服を縫っていた。アイロンをかけていたが、電気もブレーカーが落ち、使えなくなった。パソコンから聞いていたラジオも落ちて、部屋が静まりかえり、ただ事じゃない雰囲気が漂っていた。ガスも水道も止まってしまった。
貴重品だけまとめてマンションのエントランスに出ると、大勢の人がいた。
友人の友人が同じマンションに住んでいるとは知っていたけれど、多分この人かな、という男の子がいて、話しかけるとやはりそうだった。
状況がわからなかったが、周りの人の話で東北が震源だったと聞く。
その子は青森出身だというから、顔を青くしていた。隣の一軒家に住む人が車の中でテレビが見れるからと教えてくれ、わたしたちは車に乗り込み、テレビを見せてもらった。
津波で大変なことになっている場面、しかも震源に近い場所にその子の友人が住んでいるという。「昨日の夜中まで電話してたのに」
その子に何度も電話をかけていたが繋がらずだった。
あの時電話が本当に繋がらなかった。 わたしの携帯だったら機種が違うから繋がるかも、と言って電話を貸すもだめだった。みるみるその子の顔が悲しそうになり、出会ったばかりではあったが放っておけず、どういう経緯か忘れたがその彼の部屋で捜索活動をすることになった。
暗がりの部屋で充電が持つまで、パソコンで掲示板のようなところに書き込んでみたり、わたしがツイッターに書き込みをしたり(その子はツイッターなどの SNS を全くやっていなかった)、呼びかけをしたが、数人状況を教えてくれた人もいたが、めぼしい情報を得ることはできなかった。
「こんなことって本当にあるんだな」
彼は空中を見つめながら言った。聞くと彼も今日が誕生日だというから驚いた。
少ししてその彼の実家には電話が繋がり、家族の無事は確認したようだった。(その時の彼は津軽弁で、全くなんて言っているのかわからないほど強烈で笑ってしまった。津軽弁を初めて聞いた)
わたしも家族に電話する。母の誕生日を祝いに帰る予定だったけれど、電車に乗っていたら閉じ込められていただろうから、乗っていなくて幸運だった。家族も皆無事のようで安心した。「とんだ誕生日になっちゃったわ」と母は言った。
捜索活動もなかなか埒があかず困って駅の方へ出てみることにした。
駅の中も停電していて真っ暗だった。キオスクで懐中電灯でお店の人がおにぎりなど売っていて、わたしたちも一つずつ買う。人が多く混み合っていて、まさに混乱しているといった状態だった。大学の先輩とすれ違い、話をした。
家に戻り、また電話などかけ、捜索活動を続ける。
部屋には大きな大きなテレビが置いてあり、その周りにクリーチャー系のフィギュアが飾られていて、アメコミのグッズや、プラモデルなどで覆い尽くされていた。彼は大学で彫刻を専攻していた。わたしの知らない世界で生きているような人だった。
大学の話、制作の話、映画の話、音楽の話などした。彼は端正な顔だちで、背が高くてモデルのような出で立ちだった。表参道で何回かスカウトされた事があると話していた。高校時代はやんちゃだったらしく、短ランで、手の甲には人を殴った痕がくっきりと残っていた。喧嘩の時にやってしまったのか前歯が少し欠けていた。時折津軽弁が早口で、とても面白い子で、こんな状況ですら冗談を言うので笑わされた。
暗くなり、誕生日なのだからケーキを買おうよとわたしが言って、また外へ出て、少し歩いたところのコンビニへ向かった。
その道を通ったのは初めてだった。あまりわたしが行かないコンビニに彼は行こうと言った。一本道の長い道路が真っ直ぐ伸びた道だった。歩きながら話していると、遠く向こうから街灯が順番に点いていった。電気が復旧したのだ。奥の方からゆっくりとろうそくが灯っていくようだった。わたしたちは嬉しくて、喜んだ。
「この状況ももう終わりと思うとさみしい気もするな」
と彼は言うので、親友が行方不明になって悲しんでいると思いきや、そこまで肩を落としていない様子を見て、少し安心したのを覚えている。
その後、数日が経って行方不明だった友人の無事が確認された。
(20180718)
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