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他者とのかかわりの中で"自分"や"理想"が見えてきたかもしれない話

こんにちは、さやです。

マルチポテンシャライトのためのスクールirodoriに参加して、早2か月ほど。Day-3,4を終えて、ついに最終日の「宣言会」を残すのみとなりました。

この期間は日本への帰国が決まるなど、プライベートでもバタバタした時期。

でも、日本に帰るタイミングで理想の生活や仕事のスタイルと向き合えたのは、じつはかなりラッキーでベストだったのでは?と思うこの頃です。

今日は、Day-3,4を終えての心境や気づきについて、思うことなどをつらつらと書いていこうと思います。


オトナが無邪気に自分の理想と向き合うこと

以前のnoteにも書きましたが、社会人になった私たちが無邪気に、でも大真面目に、自分の理想の生活やキャリアに向き合う機会って、そうそうないのではないかと思います。

仕事で自分の目標を設定する人は多いかもしれません。

でもそれはほとんどの場合、「今の会社で」自己実現するための目標であり、もっといえば「会社の目標を達成するための個人目標」である場合がほとんど。

本当に自分の理想とする生活やキャリアについて、向き合う機会ってほぼないんじゃないかと思います。

「自分で毎月の目標を立ててるよ!」という場合でも、よく見ると「現状から考えて到達できそうなちょっと先の未来」を目標にしていることが多い。

純粋な「理想」を描いて、逆算して目標設定することってなかなか難しいのではないでしょうか。

「バックキャスト思考」なんてよく言いますが、素直に(あるいは無邪気に)、実践することに慣れていません。

だから、「理想」だと思っていたモノが、よくよく見ると現状から妥協した「ありそうな未来予想図」に過ぎなかったという現象は、きっとよくあること。

Day3,4のワークや、メンターセッション、5期のみんなとのお話を通じて、そんな「妥協した理想」を持っていた自分に気づけたことが、私の大きな学びです。

「まだ子どもが小さいから」
「飛び抜けた才能もないから」
「自信がないから」

そんなたくさんの言い訳を無意識に詰め込んだ状態で、無邪気に理想と向き合うのはすごく難しい。

振り返れば、これまでのワークを通して何度となく「何の制限もしがらみもなく、何にでもなれるとしたら何になりたい?」「どう生きたい?」と、問い続けてきていただいたと思います。

そのたびに現実思考が顔を出して、「…とはいえ○○だし」という鎖を括りつけて、純粋な「理想」を描けていませんでした。

でも、とにかく何度も何度も向き合って、たくさんの仲間と話していくうちに、ふと「あ、これ妥協した理想だった」「本当の理想は、こっちかも」という感覚が、急にふっと湧いてきました。

ずっとテーブルの上に置いてあった眼鏡を探し続けて、何度もリビングをうろうろしていたのに見つからなかったのが、「あれ、ずっとここにあったの?なんで見えてなかったんだろ」ってなったときの感覚に似ています。笑

そんな、「ずっとそこにあったけど見えていなかったもの」が、ちょっとずつ見えてきた感覚があります。

自分では見つからない探しモノ

失くした眼鏡の例えをもうちょっと引っ張ってみます。笑

失くしモノをしたときって、自分では念入りに家中探し回ったつもりなのに、家族に「あんたいつも玄関に置きっぱなしにしてるから、そこにあるんじゃない?」といわれ、見に行ったら本当にあった!っていう経験、ありませんか?

30分くらい探して見つからなかったのに、一瞬で見つかる、みたいなやつ。

同じように、自己分析で自分の強みを考えても全然出てこないのに、近しい知人に「私のいいとこって何?」って質問すると、ボロボロたくさん強みをあげてくれることがあります。

言葉では「ダメかも」って言ってるけど、「ダメかもとか言いながらめっちゃウキウキした顔してるよ?」と言われ、「あ、私ウキウキしてたんだ?」と気づくとか。

そんなふうに、自分では全然わかってないし見えてないのだけど、周りの人には至極当然に見えている。

それが、ある意味「自分」なんだと思います。

irodoriでは、周りのみなさんが相手の良いトコロを本当にたくさん言葉にして伝えてくれます。

自分としては些細な行動に、「私はそれ絶対できない!すごい」と言ってくれたり、「自分では大したことないと思っているかもしれないけどすごいことだよ」と褒めてもらえたり。

そんな経験を積み重ねる中で、「自分」の輪郭が思っていた形とちょっと違っているかもしれない、でもそれが「自分」なのかもしれない、と気づき始める。

その先に、そんな私の理想ってなんだっけ?が、ちょっとずつ見えてくる感覚を、ここまでの活動を通じて得ることができました。

自分を探しているようで、実は自分を再構築しているのかも

ちょっと相反するようですが、自分の中の感覚をもう少し吐き出させてください。

irodoriのワークにしても、自己理解的なワークにしても、他者といっしょに自己を発見していく取り組みは、「自分を探しているようで、実は自分を再構築しているのかも」と思うことがあります。

みなさん、「カニッツァの三角形」をご存知ですか?

↑このWikipediaの図を開いて見てみてください。

白い下向きの三角形(▽←こんなやつ)が、自然と見えませんか?

カニッツァの三角形は有名だだまし絵で、本当はそこに何も描かれていないのに、周りの状況などから脳が勝手に白い三角形を映し出す、というもの。

私が尊敬してやまないサイエンスライターの鈴木祐さんの著書では、「私」というアイデンティティはこの白い(実在しない)三角形と同じだ、という内容が書かれていました。

▲広告じゃないよ

つまり、「私」なる概念は確固たる形のあるものではなく、周りの環境などに応じて脳が作り出した、虚像のようなものだというかんじ。

カニッツァの三角形を取り巻く線や丸っぽい図形が変われば、真ん中に見えている白い三角が四角に見えるように、私たちのもつ「私」という感覚も、周りの環境によって大きく柔軟に変化していくものなのだそう。

これはよく、「環境が人を育てる」とか「自分を変えたいなら環境を変えろ」とか言われるのと同じ。あるいは、海外生活を経験したら性格が変わった!みたいな体験談も、同じことだと思います。

つまり、私たちのもつ「私」の概念は、周りの環境(や過去の経験から作られた物語)によって常に変わるモノであり、「これこそ私だ!!!」みたいな一生変わらないアイデンティティを確立するのは、そもそもムリ、ってことなのだと思います。

(「物語」のくだりは、ぜひ鈴木祐さんの本をお読みください。)

で、irodoriに話を戻しますと。

irodoriのワークを通じて、私たちは自分で気づいていない「私」を人からの言葉で認識していくわけですが。

同時に、irodoriという環境が、「私」を変えてもいるのだろう、と感じるのです。

irodori5期の同期は、お茶目で面白くて、素直に相手を褒められる素敵な人ばかりです。自分をさらけ出す勇気があったり、「うまくできなかった」と繕わずに話せる強さのある人たち。

そんな皆さんとずっと一緒にあーだこーだ議論する環境があって、そう、「環境」があって。私を形成する「環境」が、確実に変わったのだと思うのです。

だから、ずっと自分探しをしているようでありながら、環境が変わることで、探していた「自分」そのものがだいぶ変化してきてもいる、と感じます。

正直、私はここまでお付き合いの期間が浅い人方々に、素直に自分をさらけ出せる人間ではありませんでした。

相手を褒めることで暗に「相手のようにできない自分」が嫌になる気がして、素直に褒める言葉を口にできませんでした。

でも、それが自然とできる仲間と一緒にいることで、私の環境が変わって、私自身が変わったのだと思います。

「できないー!」と素直に言い、「めっちゃすごいね!」と素直に言える自分に、変わってきているのかな、と。

変容の途中にある自分を探しているようなものだから、人から「さやちゃんって○○だよね」といわれると「全然そんなことないよ!」と言いたくなることもありますが、その状態に昔なかったとしても、今そうなりかけているのかも、と思うわけです。

・・・

抽象度が高くて、話がややこしくなってきましたね。

でもまぁ、素直に書けば、私は今そのように感じているわけです。

行動まで変えていくために

そんなこんなで。

自分の無邪気な「理想」と向き合ってみたり、
自分の知らない「自分」を見つけてもらったり、
なんなら「自分」そのものが変わっていったり。

なかなか忙しい2か月でした。笑

でもこれでもちろんおしまいじゃなくて、ここから実際どう動いていくかが最大のポイントです。

irodoriの卒業は、ゴールじゃなくてスタート。

本当にそう思います。

スタートしたら、走っていきたい。

でも一人だとまた変な沼に突っ込みそうだし、沼の中で暴れまわって深みにはまりそうだから。

今度は仲間と一緒に、スタートしていきたいなぁと強く思います。

走っていく先のゴールはそれぞれでも、irodoriの仲間は、今やもう「私」を形作る大事な「環境」なんだな、と。

Day4を終えた今、そんな気持ちを抱いている受講生のひとりごとでした。

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