見出し画像

発信と中傷

こんにちは、さやです。

noteで発信し始めて1年以上になりました。

読んでくださる方が少しづつ増えて、メッセージをいただくことも増えて。

趣味的に始めた発信ですが、少しは誰かの役に立っているのかなぁと思うと本当にうれしく思います。

一方で、やっぱり発信をしていると良いことばかりではないということも、少しですが実感します。

例えば前回、カナダ移住に際しての私の数々の失敗とそこから得た学びをnoteに綴ったのですが。

目にして悲しくなる反応もありました。

要約すると、「自業自得じゃん」「まぁ、本人反省してるみたいだしいいんじゃないw」的なコメントの往復。

直接私のnoteを指して書かれたコメントではなかったけど、状況的にそうだよねぇと理解できる内容でした。

失敗から学ぶためのアウトプットとして書いたnote。

もし読んでくれる人がいたら「私もそのあたり気をつけなきゃ!」と思ってくれたらいいかな、という想いで書いたnote。(他人の失敗からは、自分の失敗以上に学べることが科学的に立証されているらしい。)

不快に思った方がいたのかもしれません。

私はたったこれだけの反応でも、しばらくnoteを書くのが嫌になっていました。

その程度のことで傷つかないと思っていたので、自分でびっくり。

ちょっと時間がたち、今日は久しぶりにnoteを書いています。

ときを同じくして。人気漫画家さんの悲しい事件が報道されました。

SNSの在り方、言葉の鋭利さを改めて考えさせられました。

少し話はそれますが。

人間(ホモサピエンス)は、集団を形成することで生き残った人類だといわれています。

人間が直接関与して脳が処理できる人数の限界は150人といわれていますが、ホモサピエンスはそれ以上の大きな集団を形成することができた。

そのために、新たな技術をグループ内でシェアしたり、危機が訪れた際には助け合ったりできた。

集団を築ける力は、人類が生き残るうえですごく大きな力になったわけです。

そして今、私たちは150人以上の人と容易にネットでつながれる世の中になりました。

とはいえ、私たちの脳の容量が何倍も大きくなっているわけではありません。

本名も知らない、顔も見たことがない人と繋がれる世の中は、情報伝達の面でプラスがある一方、大きなマイナスも私たちに及ぼしていると言われています。

その代表が誹謗中傷だったり、他者と比べて自己嫌悪に陥ることだったり。

なかなか難しい問題ですね。

一方で、こんな言葉も見つけました。

「匿名の人間は、あなたの人生に存在しない人」

そうかもしれません。

匿名の誰かに何かを言われたとしても。

言われたわけではなく、ただ誰かが何かに向かって発した言葉を自分事化してしまっただけだとしても。

それはもう、私の人生の外にある言葉。

そういう割り切りが必要なんだろうなぁと思います。

一方で、匿名から始まった関係の距離が少しずつ縮まって、1対1でチャットするようになったり、オンラインでお会いしたり、実際にお会いしたり。

そんな縁につながったこともあります。

そういう出会いは、私の人生にとって本当に大事なものになりました。

だからやっぱり、SNSのメリットが大きいのもすごく実感できる。

だとすれば、私たちができる「防衛」は、自分の人生に良い影響をもたらしてくれる匿名さんと、害になってしまう匿名さんを自分で見極めること。

そして、後者とは自分から距離を取ること。

それは悪いことではない。だって最初から、私の人生にないものなのだから。

あるいは。やっぱり自分の人生の短さを理解して、自分の価値観に沿う行動だけに集中すること。

そんなことを、noteを書かないここ数日で考えていました。

 「神よ、変えられるものについてはそれに立ち向かう勇気を、変えることのできないものについてはそれを受け入れる落ち着きを、そして両者を見極めるための賢さを、私に与えたまえ」

ニーバーの祈り:完全主義と依存症をつなぐもの

この言葉がやっぱりしみるなぁと思ったりします。

さぁ、このnoteに書き記すことで、私の中で繰り返されるネガティブな気持ち=反芻思考を断ち切ろうと思います。

自分の人生に有意義なものを集めて、生み出していくことに集中できるように。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?