人間の肯定という至上命題 呪術廻戦過去編

特権性を持った人間は何に奉仕すべきか、才能は誰のものか。
夏油のヒューマニズムとその挫折、五条の愛や共感に基づかない無条件の人命尊重。
そんな、呪術廻戦過去編についての書き散らしです。ストーリーへの言及を含みます。

五条と夏油、この2人の天才の思想は対照的だ。圧倒的な力を持ちつつも弱者救済は嫌いだと公言し、でもその能力を使ってやりたい悪事もないので差し当たり人助けに力を使う五条。一方で自身の特権性を自覚して意識的に自身の能力を、力を持たないもののために使う夏油。

呪術廻戦の世界では呪術師の素質の99%は遺伝だと説明される。だが一方で呪術は天与のものであるとはいえ、力を行使して人を救う呪術師の道を選んだ時に彼らが賭けるのは自身の時間と命、すなわち人生そのものだ。だから能力を人のためではなく、自身のために使う呪詛師という存在もいる。ここに古典的な特権者のプロフェッショナリズムと、現代的な能力主義とが相対して存在している。

盤星教の一件で二人は、今まで無条件に命を賭して救っていた人間の、本質の醜い面を見た。人間とは、果たして自分の人生や生命を賭けてまで救う価値のある存在なのか。改めて自分は力をなんのために使うのか。

そうした葛藤を経て、この事件を境に異なる道を歩むことになる2人の印象的なやりとりがあった。

「意味がない」。無自覚な悪を体現した盤星教の信者たちを前にして、彼らへの殺意を隠さない五条に夏油は答える。その殺戮には意味がないと。浅はかさ、愚かさ、醜さ、残酷性、それらは人間の本質の一部でありこの世から無くせるものではない。この世に人間的な悪が存在するという現実は、単に目の前に顕現した悪である彼らを除いたとて地上の悪の総量が減るという類の問題ではないことを夏油は悟っていた。

「意味ならある」。一方でその後全人類を呪術師にするという計画を明かし、そんな荒唐無稽な計画は無意味だと反駁する五条に夏油はいう。意味ならあると。この計画は問題の根本的解決だ。全人間に呪力操作を可能とさせることで呪いの発生を元から断つ、つまり世にあふれる悪意の総量を減らせる。対症ではなく根治。だからそれには「意味がある」。このようにヒューマニストであった呪術師時代の夏油と、虐殺を厭わなくなった呪詛師の夏油の、思想は根底で一貫している。ただし人命の無条件の尊重という一点を除いて。夏油は人間の命よりも上に、彼の正義の遂行を置くことを選んだ。そして対照的に、この件を境に五条は博愛に目覚めたわけでもないにも関わらず、無条件に(ある種無関心に)人の命を救うようになる。

2人の差異は、人間の無条件の肯定の有無にある。「人間の肯定」は、他のあらゆる価値観の基底だと思う。その命題にはそれ以上遡れる根拠が存在しないからだ。つまりそれを無条件に肯うか、退けるかの二択しかないが、退けてしまったら人間を否定することになってしまう。(これはトートロジーだけれど。)進撃の巨人でアルミンが、「人がいなきゃ戦争は起きないだと、そんな冗談を真に受けるやつがあるか!」と叫んだように。人が目的の下に置かれるなら本末転倒だ。全ての人間は等しく無根拠に、無条件に、無前提に、尊い。そしてそこに理由はない。

人間のみにくさを嫌いそうになる時、人は必ず続く以下の問いに立たされる。すなわち、「あなたが嫌ったのは、あなたが嫌うその醜さとは、つまりは “人間” そのものではないのか?」、と。そして、ではなぜ人間を嫌ってはいけないのか、と続き、また上記の命題に帰着する。漫画版・風の谷のナウシカにおいて宮崎駿は、人間と自然の関係を突き詰めて眺めた結果、その思想において人間の否定に限りなく接近したようにみえた。だが彼は最新作「君たちはどう生きるか」で、そうした人の醜さを憎む自身の潔癖さにあらがって、人間という存在のありようを受け入れ共に未来を作っていこうという姿勢を示したように私には映った。

私は人権を有した一個の人間でありたいし、それが守られる社会に住みたいと思う。それゆえに常に人間を肯定する側でありたいと思う。人の尊厳を軽視する人、人をその属性に基づいて攻撃する人、虐殺を否定しない人、無関心によって大きな力による個人の蹂躙を見て見ぬふりをする人ではなく。一方で平気で人権を軽視する彼らのことも、存在のレベルにおいては肯定しながら。人間性を損なうものに抗い続けたいと思っている。これらの思想の根拠には、私が敬愛するカミュの影響がやっぱりあるのかもしれない。

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