見出し画像

「正しさ幻想」はどうして生まれるのか?(その1)

 たまにテレビの健康番組などで「今日は、理学療法士さんに正しい歩き方を指導してもらいます」などと聞くことがある。

 どうも「正しい歩き方」があるらしい。興味を持ってみていると、理学療法士が「正しい歩き方は胸を張って腕を大きく振り、足は踵から着地するようにしましょう・・・・」などと説明している。

 どうやら歩き方というのは、見た目の形のことを言うらしい。

 それで僕などは違和感を持つわけだ。「踵から接地するのが正しい形の歩行なら、たとえば歩行する時、足底全体で接地するときは『間違った歩行』となるのだろうか?」などと考えてしまう。

 そうすると凍った路面を猫背になり、そろりそろりと足底全体で小刻みに歩いている人は「間違った歩行」をしているとなる。とは言え、凍った路面で胸を張って腕を大きく振って歩けばすぐに転倒してしまう。山歩きで比較的急斜面を下るときは、足をまっすぐ足底全体で踏み締めて滑らないようにする。これも踵から着いていたらあっという間に滑り落ちて病院送りである。だがこれも「間違った歩行」になるのか!・・・などと我ながら屁理屈をこねていることはわかっているが、やはり思ってしまう。

 歩行の形なんて環境や状況が変われば自然に変わるのが当たり前である。家の廊下は普通に歩いていても、斜面の砂利道では歩隔を広げて安定しようとする。水溜まりを歩く時は靴が濡れないようにつま先立ちで進む。暗闇では片足先で床面を探りながら少しずつ進む。ガードレールと放置自転車が並んで狭くなった通路なら横向きにすり抜ける。彼女に交際を申し込んで承諾されたら、嬉しくて跳ねるように歩くだろうし、逆に断られたら肩を落とし、足下を見つめながらトボトボと歩く。

 テレビの理学療法士の言う「正しい歩き方」とは「元気で健康的な若者の平地を歩く時の形がモデルですよ」としているわけだ。
 しかし健常者の運動システムの性質の一つは、環境や状況の変化に応じて適切に形を変化させて適応的に歩くことである。何かたった一つ「正しい歩き方」の形があるはずがない。健常者では「状況に応じて適切、適応的に変化する」歩き方があるだけだ。

 こう考えると「正しい歩き方」という言い方は相応しくない。

 そうすると最初に出てきた理学療法士は、「歩きやすい平地を歩く時にはこうすればなんとなく元気よく歩いているように見えますよ」くらいの意味で言っているのであろう、などと納得する。

 ところがどうも看過できないこともある。たとえば脳卒中片麻痺の方が分回し歩行をしていると「ダメダメ!その歩き方は悪い歩き方だよ!あなたが元気な時は、ここの筋肉を使って、こう、まっすぐに足を振り出してたはずだよ。だからここの筋肉を使ってまっすぐ脚を振り出しなさい!」などと注意しているセラピストに出会う。

 後から「麻痺があるんだから仕方ないんじゃないの」とそのセラピストに言うと、「そうではない!脚を振り出すために本来の機能とは違う他の筋群を使って振り出している代償運動である。だから修正した方が良い。あなただって片麻痺になったらあの歩き方より、健常者の歩き方がよいと思うのではないか!」などと言われる。

 僕も性格が悪いので、心の中で「あなたがもし分回し歩行しかできないなら、歩くのをやめるの?」と聞きたいが、それは堪える。無駄に敵を増やすだけだもの。

「でも麻痺があるから・・・」と繰り返そうとすると「脳には使われていない細胞が沢山あって、それらに失われた細胞の機能を学習してもらうのだ。脳は再学習するからね。そうすればまた元通りの歩き方に近づいていく」などと言う。

 でも実際にその考え方が日本に入って60年くらいになると思うが、未だにそれで麻痺が治ったという科学的な論文が出たという話は聞いたことがない。日本どころか世界でもないらしい。どうもリハビリで麻痺は治らないと考えた方が良いのだ。

 学校で習う教科書にも分回し歩行は「異常歩行」とか「代償歩行」といった言葉が使われている。「異常」とか「代償」とか名付けられると、「それは正しい歩き方に治さないといけない」などと自然に思ってしまうものなのだろう。大変なことである。

 それで「正しい歩き方、正解の歩き方があり、それは健常者の標準的な歩行の形である」と思い込むことをCAMRでは「正しさ幻想」と呼ぶ。

 このシリーズでは、この「正しさ幻想」がどうして生まれるのか考察してみたいと思う。(その2に続く)

※CAMRのFacebook pageには毎週火曜日に投稿しています。
 最新の記事は「運動の専門家って・・・何?(その1)」
 以下のURLから。
https://www.facebook.com/Contextualapproach


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?