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『ダーク・ウォーターズ 巨大企業が恐れた男』と、アメリカ映画の健全さ

社会問題を映画にすること

この作品を見終えて、アメリカ映画が持つ倫理性にあらためて感動しているのですが、実在の企業、しかもなお現在も存続している大企業に対して、ここまで直接的な告発映画を撮り、発表できる事実をどうとらえればいいのでしょうか。アメリカの化学メーカー、デュポンが有毒な物質を不法に廃棄して、ウェストバージニア州の土地を汚染させていた事件を取り上げた本作品には、「こうした映画が撮られなくてはならない」という意思が感じられます。また、それが一般映画として(つまりは娯楽作品として)公開され、人びとが映画館へ足を運ぶ、その状況の健全さにもまた驚くほかないのです。

デュポンが汚染した土地で暮らす住民が、主人公の弁護士ロブ(マーク・ラファロ)にその状況を訴えるところから始まる本作は、大企業の強い力と、個人の脆さを対比しながら、いかに弱き個に寄り添うかをテーマにしています。人体への有害性を知りながら、利益を生む商品の製造を止められない企業の悪質さに対して、映画がここまで明確に怒りを示しているのが感動的で、こうした映画を日本で撮れるものだろうかと考えてしまいました。マーク・ラファロやアン・ハサウェイといった人気俳優がこうしたシリアスなテーマの作品に出て、しかもそのキャリアが傷つかない(一方、2019年の日本映画『新聞記者』では、主役を演じる日本人女優が見つからず、海外の女優に依頼するほかありませんでした)という風通しのよさにも敬意を抱きます。

意図的に大量の資料を提出して混乱させるデュポン

サブジャンルとしての裁判映画

「裁判映画は、ハリウッドでもっとも人気のあるサブジャンル」という加藤幹郎の指摘にもある通り、裁判を描いた作品にはアメリカ映画の真髄が発揮されます。ハリウッド映画において裁判映画がジャンルとして重要である経緯については、ホロコーストを逃れてアメリカへたどり着いたユダヤ人が多いハリウッド映画業界において、「法に基づいて正義がなされる」ことは決定的な意味を持つためだと読んだことがあります。正義を達成する過程が苛烈な戦いとして描かれる裁判映画には、アメリカ的精神の称揚が感じられ、個人的にもとても興味ぶかいジャンルです。事情を知って調査を始めた主人公が、証拠を集めて裁判を開始し、大企業と正面衝突する、というエンタメ的なフォーマットを踏襲している部分も好きです。こうした映画が娯楽として享受されることの健全さが重要なのです。

決して爽快な後味の作品ではなく、結末も苦い勝利といったものです。裁判にきわめて長い時間がかかり、その間に関係者も老いてしまったり、亡くなってしまったりするのですが、「このような映画が撮られなくてはならない」という意思が感じられたし、そこにアメリカ映画らしさが見て取れます。アメリカの善意とでも呼ぶべき人物を好演したマーク・ラファロは『スポットライト 世紀のスクープ』(2015)でも社会問題を扱っていましたが、こうした実在の社会問題を扱いながら、アメリカにとってのあるべき姿を作品に反映させていくというスタイルの映画を見るだけで、私は胸を打たれてしまうし、その圧倒的な健全さに驚くほかないのです。

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