『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』と、誰もが生きるマルチバース
みんなマルチバースに生きている
コインランドリー店を営むエヴリン(ミシェル・ヨー)は、生活のため必死に働いているが、さまざまな雑務やトラブルに追い立てられていた。国税局からの厳しいチェックと書類の山、ルールを守らないコインランドリー店の客、父や娘とのややこしい関係性など、悩みは尽きない。国税局から呼び出しをくらったエヴリンは、提出した領収書の妥当性を疑われ、コインランドリー店の経営が立ち行かなくなる危機に見舞われる。しかし、そうした窮地へやってきたエヴリンの夫ウェイモンド(キー・ホイ・クァン)は、まるで別人のようにキビキビと動いてエヴリンを驚かせる。彼は「別のユニバースからやってきた存在だ」というのだ。夫(別バージョン)によって、マルチバースへの扉を開かれたエヴリン。かくして、マルチバースを縦横無尽に移動するエヴリンの冒険が始まる、というあらすじだ。さて、ここからは私の感想になるが、いまから書くことは、おそらく多くの人が指摘していることで、あまり目新しい見立てではないかもしれない。また、映画の本質からは外れた内容になってしまいそうだが、それでも書いてみたい。本作は腑に落ちる部分が多く、胸を打たれたし、現代的なモチーフに感じられたのだった。
本作を見て、なぜ「マルチバース」という考え方が世間一般に受け入れられたのか、そのイメージがつかめたような気がした。ドクター・ストレンジの魔術など持っていなくとも、私たちはみな、日々マルチバースをめまぐるしく横断しているのだ。エヴリンが税の申告のための書類の山を前に途方に暮れる場面で、ようやくその意味がわかった。マルチバースとはきっと「積み上がっていく無数のタスクや責任」なのだ。追い詰められて余裕がなくなっていくエヴリンを見ながら、何かとても合点がいったのである。たとえば「会社で働いているとき」を考えてみよう。もし、やらなければならない作業がひとつずつ順番に、余裕を持って依頼されれば、これほどラクなことはないが、現実にはそうはいかない。いろいろな作業や依頼ごとが一気に、脈絡なく入ってきてしまうのである。あわててAの作業を進めようとするとBの催促メールが入り、いったんAの作業を止めてBの作業へ移ると、チャットでCの相談が飛び込んでくる。そのあいだにもDとEの新しい作業が割り当てられてくるのだから、たまったものではない。頭がおかしくなってしまいそうだ。
マルチバースに追い立てられて
AとBとCとDとEとFについて、いっぺんに考えさせられること。いろいろな責任が、一度に襲いかかってくること。自分でも整理がつかないほどの「To Do リスト」がうなるように迫ってきて、身動きが取れなくなること。それが現在の私たちの姿であり、この社会で生きていくことの特徴だと思う。監督は、ADHD(多動症)をテーマにしたと語っていたが、そもそもいまの社会全体が多動症的ではないか。ものすごい勢いで動かなくてはならず、「すべてを、あらゆる場所で、いっぺんに」片づけることが優れた人間の条件になった。誰しもがつねに、何かに追い立てられているのである。この社会で生きていく経験が、とてつもなく目まぐるしく、休むヒマもないほどに押し寄せてくる作業の山とつねに格闘しつづけるようなものに変化しているような気が、私はしている。
ほんらいコンピューターは人の代わりに仕事をしてくれる機械であり、人は技術の発達によってラクになれるはずだった。昔、何かそんな話を聞いた記憶がある。ところがパソコンやインターネットは、われわれをラクにするどころか、やらなければならない作業をどこまでも増やし続けている。一度に複数の作業などできないのだから、ひとつずつ確実に片付けていくしかないのだが、何かに落ち着いてじっくり取り組む余裕が持ちにくい。税務書類の山を前に悶絶するエヴリンのように嫌々ながら作業を進めるのだが、そのとき他のマルチバースでは、また新たな危機が発生し続けている。あちらからも、こちらからも、さまざまな依頼が飛び込んでいる。くわえて、いつでもどこでも本人と連絡が取れる、あらゆる事象が記録に残るネットワークの発達が苦しさに拍車をかける。なんだかすごい世界に私たちは生きていると、しんどくなることも多い最近である。『エブエブ』を見ながら、私はもう死ぬまで「のんびり」などできないのだろうと、妙なことを思った。