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『オールド』と、喪失の箱庭

こちらの記事は、予告編で言及された以上の内容に触れていませんので、未見の方でもお読みいただくことができます。

いびつで魅惑的な閉鎖空間

『ヴィジット』(2015)以降ほんらいの調子を取り戻し、完全復活したシャマラン監督の新作は、リゾート地の美しい浜辺を舞台にした、時間にまつわる物語です。作品では、すべてが「シャマラン的」としか形容しようのない、魅惑的でいびつな世界が展開されていきます。予告編で語られている範囲で説明すると、登場人物らが訪れたその浜辺では、どうやら時間が異様に早く進み、あっという間に加齢してしまうようなのです。リゾート地へ海水浴に来た家族は、やがてそのプライベートビーチの異変に気づきます。子どもたちはたちまち身長が伸び、ほんの数時間で大人びた雰囲気に変身してしまいました。さらには浜辺から出ようとしても、なぜか逃げることができません。時間はさらに経過し、浜辺に取り残された人びとはみな急激に老いていきます。この異様な場所から、彼らは脱出することができるのでしょうか。

本作における浜辺は、いっけん開放的に見えるのですが、実際には脱出不能の箱庭であり、基本的にはすべてがそこで完結するタイプの物語です。設定としては『レディ・イン・ザ・ウォーター』(2006)に近い舞台のセッティングといえます。「すべてがあるひとつの場所で完結する」とは実にシャマラン的であり、その閉鎖性が彼らしい物語世界の構築に不可欠になっている点に魅了されました。また「脱出不能な閉鎖空間」という舞台設定は、どこかルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』(1962)における邸宅の一室を連想させ、喧伝されている「ホラー映画」というジャンル性よりは、より不条理で哲学的な問いが生じるフィルムだという印象を持ちました。『皆殺しの天使』の劇中、登場人物たちは、なぜかその部屋から出られないのです。同様に『オールド』における閉ざされた空間、異様に早く進む時間、という要素には、ストーリー全体の不吉さが高まる効果があります。

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ブニュエルとシャマランの違いとは

では、ブニュエルとシャマランの違いとは何でしょうか。『皆殺しの天使』では、邸宅に集ったブルジョワジーたちがなぜ部屋から出られなかったのか、具体的には説明されませんでした。そしてブニュエルの場合、なぜ出られないかは説明不要ですし、観客も説明を求めてはいません。出られない、という状況そのものが魅惑の源泉なのですから。この意味では、ブニュエルは純文学的です。しかしシャマラン作品は、みずから作り出した状況に対して、異様にくっきりとピントの合った答えを出そうと試みます。その独特の答えの出し方、実は○○だった、という結末への持っていき方がシャマラン・マジックだと思うのですが(例:『サイン』〈2002〉における野球バットの使用法)、かかる結末の提示へと至る過程がもたらすめまいと陶酔にはたまらないものがあります。

映画作家としてのシャマランには「観客に明快な結末を提示しよう」という、いわばエンタメ的な資質があるのですが、彼の提示する結末にあっては、愛すべき強引さとでも呼ぶべき極端な着眼点(焦点)の移動が生じます。決してでたらめなのではなく、あまりに整合性が取れすぎているため、逆にいびつさを感じさせるのです。その結果「これまで提示してきた劇中要素」と「そこから導き出される結論」のあいだでシャマランが見せる途方もないジャンプに、観客は圧倒されてしまうこととなります。まるで、彼の作り上げた箱庭世界のからくりを嬉しそうに見せられた時に感じる、ミニチュアサイズの興奮とでも呼ぶべき何かが、そこには生じるのです。彼の作家性に対するこうした説明は、どうにもシャマランをほめているようには感じられないかもしれませんが、私にとっては最大限の賛辞なのです。

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『オールド』で特筆すべき点は、実生活で彼が感じたであろう不安が反映されている部分でした。言及すると内容に触れてしまうことになりますが、作品を見ながら「なるほど、彼はこんなことで悩む年代になったのだな」と感じずにはいられませんでした。本作においても、彼は箱庭の世界で戯れているのですが、そこに切実な不安、寄る辺なさを加味できたのは、シャマランの成熟ではないかと感じました。『オールド』のエンドクレジットを眺めながら、これほどにめまいを感じさせてくれる、美しくていびつなフィルムを撮れるのは、彼をおいて他にはいないとあらためて確認しました。

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