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ぜんぶ、克也のせい(1)

すべては小林克也のかけた呪いだった。彼のせいで、私はいまだに英語の勉強をつづける羽目になっているのだ。

「ベストヒットUSA」の衝撃

これまでの人生を振り返って、誰が自分にもっとも強い影響を与えたかと考えたとき、やはりその男であると結論せざるを得ない。小林克也。ラジオDJ。米軍の短波放送(FEN)を聴きながら独学で英語を習得した日本人。スネークマンショーのメンバー。そして何より、1981年から始まった音楽番組「ベストヒットUSA」の司会者。

中学生の私は「ベストヒットUSA」に夢中になっていた。アメリカのヒットチャートを紹介し、プロモーションビデオを流す音楽番組である。マイケル・ジャクソンの「スリラー」(1982)をきっかけに、音楽と映像が一体化した80年代洋楽文化は大きく勢いがつき、情報の届きにくい田舎の中学生にも伝わるほど一般的になっていた。土曜深夜、テレビから流れるきらびやかな80年代洋楽サウンドを聴きながら、私はほとんど酩酊していた。これほどに都会的で景気のいい、洗練された表現があったのか。

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このめがねの男性は誰だ

まだ家にビデオデッキはなかったため、毎週見逃さず、しっかり記憶に焼きつけるしかない。アーティストの名前と曲名はすべてメモした。翌日に駅前の西武デパートにある輸入盤売り場でレコードを探すためである。自分が未知の文化圏に足を踏み入れていると感じた、初めての経験だった。それにしても、この番組の司会を務めるめがねの男性は何者なのか。流暢な英語を操り、ごきげんに曲紹介をしたかと思えば、来日アーティストにも直接インタビューする。

a-ha、フィッシュボーン、Bros、どんなミュージシャンでもスタジオに招いて平然と会話し、臆することがない。毎週見ているうち、番組で流れる音楽以上に、この男性の存在が気になり始めていた。どうやら彼は自分でこつこつと英語を勉強したらしい。日本生まれで誰にも教わらず、ラジオを聴いただけでこのように話せるようになるものだろうか。またこの男性は、何しろ声質がいいのである。彼が声を張って曲名をアナウンスすると、いかにも音楽番組という華やかな感じがする。

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決定的な事件

最大の衝撃は1986年4月に起こった。英歌手ピーター・ガブリエルが、シングル「スレッジハンマー」をリリースしたときのことである。同曲の凝ったプロモーションビデオは当時大きな話題で、当然「ベストヒットUSA」でも放送されたのだが、テレビの前で待つ私に向かって小林克也は、これ以上はあり得ないという最高の発音で「ピーター・ゲイブリエル、スレジハマー」と紹介したのだった。おそらく、この瞬間にすべてが決まったのだと思う。私は「英語」というものの核心に、衝突事故のように激しくぶつかったのである。

ゲイブリエル。それはヘレン・ケラーの「ウォーター!」にも匹敵する、圧倒的な開眼であった。Gabriel はガブリエルではない、それだけで腹の底からわきあがるような興奮を覚えた。これ以上カッコいい何かに、私は触れたことがなかった。「スレッジハンマー」のプロモーションビデオよりも、「Gabriel の発音はゲイブリエル」という事実に圧倒され、そのことばかりが頭を離れない。気が済むまで、Gabriel の正しい発音を繰りかえした。あまりにも強く、名状しがたい体験だった。

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ストレイト・アウタ・福島

何としても英語ができるようになりたい。この田んぼとヤンキーと芋煮会だらけの福島県の向こう側には、「ベストヒットUSA」の見せてくれるキラキラした世界がある。そちらに行きたいと私は思った。英語は「ベストヒットUSA」的世界へ参入するためのチケットなのではないか。小林克也のようにすらすらと話せれば、そのまぶしい世界へ入場できるはずだ。だからこそ私は英語を覚えなくてはならない。そうすれば、まったく別の自分になれそうな気がした。

しかし、あの魅惑的な英語を自在に操る段階にまではどうすれば到達できるのか。学校で習っている英語はどうにもぴんとこないし、そもそも「ベストヒットUSA」に出てくる華麗な英語とはまったく無縁に思えた。まるでアディダスの模造品の、2本しか線のない安物のジャージを嫌々ながら着させられているような感じがする。もっとカッコいい英語はどこで教えてくれるのかと、私は疑問に思っていた。かくして福島の田舎に、小林克也ワナビーの中学生がひとり誕生したのである。


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