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ナサニエル・ホーソーン『緋文字』(岩波書店)

胸に赤いAの刺繍

実際に小説を読んだことがなくても「女性の胸に赤いAの刺繍」といえばぴんとくる方も多いのではないか。映画ファンであれば、エマ・ストーンが主演した映画『小悪魔はなぜモテる?!』(2010/原題 'Easy A')で引用された、Aの文字の入った洋服を連想するかもしれない。小説の舞台は17世紀のアメリカ、ニューイングランド。不倫相手の子を宿した女性、ヘスター・プリンに対して与えられた罰は、胸に赤い色でA(不倫、不義密通を意味する Adultery の頭文字)と刺繍された服を着て残りの生涯をすごすことだった。罰の象徴である緋文字(ひもんじ)によって、女性は共同体から遠ざけられ、蔑まれながら生きることを余儀なくされる。主人公はひとり娘のパールと共に、疎外された環境でつつましく暮らしていた。この娘の父親はいったい誰なのか、主人公は決して明かそうとしない。

本書の2章「広場」は、町の広場に集まった数多くのボストン市民が、なにかの催し物でも楽しむかのように、不倫の罪を犯した主人公をさらし台に乗せ、一斉に糾弾するという怖ろしい場面である。物語の冒頭ではあるが、緊張は最大に高まり、ボストンの群衆はみな興奮状態にある。「この女はだよ、わたしらみんなの面をよごしたのだから、死ぬのが当然。そういう法律がないというのかね?」。いざ正義の鉄槌をくださんと鼻息荒い群衆は、獄舎からあらわれたへスター・プリンにありったけの憎悪をぶつける。のっけから戦慄の展開である。

処罰への欲望

群衆はいきり立ち、不義密通の女を処罰せよと広場へ押しかける。主人公はいったいどうなってしまうのかとおののくが、当の女性へスター・プリンはこうした共同体の圧力に屈しない。「父親の名前を言え」と興奮して叫ぶ群衆に向かって、彼女は毅然と言い返すのである。

「言え、女!」別の声が、冷酷無残に、さらし台のまわりの群衆から飛んだ。「言え、そして子供に父親を与えてやれ!」
「絶対に言いません!」へスターは、死人のように青ざめながら、たしかに聞き覚えのある、この声に向かって応えた。「それに、わたしの子には天の父をさがさせます。この子に地上の父は教えません!」

展開を追いつつ、思わず握りこぶしでへスター・プリンを応援してしまうシーンである。こうした糾弾の場は、ある種の娯楽としてボストン市民に供されているふしがあり、彼らは神妙な顔つきで道徳を口にしながら、女性を処罰するグロテスクな興奮に酔いしれている。こうした処罰への欲望を象徴するのが、女性の胸につけられた緋文字である。ナチスドイツが欧州のユダヤ人に強制した六芒星もそうだが、罰則としての服装や紋様には予想以上の力があり、たやすく人間の尊厳を奪ってしまうものだ。あらゆる方法で主人公に恥辱を味わせようとする群衆であったが、折れずに立ち続ける女性の姿が読者の感情を高める。へスター・プリンの不屈、逆境を跳ね返すエネルギーが本作の推進力となる。

女性を罰する社会

貧相な道徳観をふりかざしながら女性を罰する社会、という冒頭の描写で、どうしても現在の日本社会について考えてしまう。有名人の不倫が発覚した場合でもいいが、男女で非難の度合いや制裁の重さが異なるのではないかと前々から感じていたし、ほんらい当人同士の問題であるにもかかわらず、やけに道義的責任を追求したがる傾向も理解できなかった。また本作では妊娠が非難の原因となるが、高校の女子生徒が妊娠した際に退学させられるという日本の風潮も不合理で理解に苦しむ(誰もひとりでは妊娠できない。なぜ男子生徒の責任は問われないのか)。女性に対して発動されやすいサディスティックな処罰の風潮こそが、ホーソンの問題意識につながっているように感じた。『緋文字』は19世紀に書かれた小説だが、そのテーマ性は現代においても有効だ。

本作において輝かしい未来の可能性となるのは、娘のパールである。彼女がいなかったら、この小説はさらに陰鬱になってしまっていただろう。パールが物語の随所で発揮させる、力強く奔放な言動はどれもすばらしい。このように輝きのある登場人物はなかなかおらず、全編を通してすっかり引き込まれてしまった。娘のパールは成長後、アメリカを捨てて欧州へと旅だったことが示唆されるが、その選択にも清教徒的な倫理への失望があるように思えてならない。全編を通して、少女のエネルギーに満ちた姿がみごとな彩りとなっていた。教会がもっともらしい理由をつけて、主人公から娘を取り上げようと画策するくだりもまた胸が痛むのだが、ここにも女性を処罰する醜い欲望が表現されているように思う。

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