ロバート・ウェッブ『「男らしさ」はつらいよ』(双葉社)
男の子にならない方法
イギリスのコメディアン、ロバート・ウェッブの著書 'How not to be a boy' (原題は「男の子にならない方法」の意。邦題は『「男らしさ」はつらいよ』)は、「男らしくあれ」「女らしくあれ」という社会的圧力の強いイギリスで育った著者が、その経験を元に、いかに男性性から自由になるか、男らしさの呪縛から離脱するべきかを書いた自伝的テキストである。著者が大学を卒業するまでの経験を中心に時系列で語りつつ、「男は内気ではいけない」「男は泣いたりしない」「男は痛みを隠さなければならない」といったテーマを各章ごとに論じていく構成がすばらしい。著者の思春期の苦い記憶と男性性を交差させた、読み手の心に届く文章に胸を打たれたし、いかにもコメディアンらしいユーモアのセンスも楽しい。知り合い全員に電話をかけてこの本をすすめたいような、そんな気持ちでこの文章を書いている。
まずは本書に寄せて、個人的な経験をひとつ書きたい。私が小学校5年生の頃のことである。その日は朝から大雨で、母親は長靴を履いて学校へ行くよう私に言った。母親が私に渡したのは、普段祖母が使っていた婦人用の白い長靴であった。私は何も考えずに白い長靴を履いて家を出たのだが、いざ学校へ到着してみると、同じクラスの男子生徒は私の長靴を見ていっせいに大笑いし、「おい、オマエなんで女の長靴履いてんだよ!」と大声ではやしたてるのだった。とたんに恥ずかしくなり、長靴を脱いで上履きに履き替えようとするのだが、周囲は「勝手に脱ぐなよ! いまみんな呼んできたから、そのまま履いてろ。おーい、コイツ女の長靴履いて学校来たぞ」と大騒ぎで、見物客は増える一方、私はいつまでも長靴を脱げないままである。たいていの5年生の男子生徒は「身につけてはいけないモノの禁止事項」が頭に入っているはずなのだが、私はそうしたルールの存在すら知らないままだったのだ。
あまりにイレギュラーすぎる経験
こうして文章にしながら、あの瞬間に感じたいたたまれない恥ずかしさがよみがえってくるようである。なぜ私は、周囲が当然のごとく察知していた基準を把握していなかったか。私は「男性性」なるものに疎かったのだ。こうした経験はあまりにイレギュラーすぎて、人に話して共感してもらえる類いのものではないと思っていた。「先生をお母さんと呼んでしまう」は伝わるが、「学校に祖母の長靴を履いていってしまう」は伝わらない気がする。これはとても周囲に話せるような経験ではないとあきらめていたのだ。だからこそ本書の著者が、女性用の靴下を履いて運動会に参加してしまい、まわりの男子生徒にいじめられたという描写を読んだとき、心底驚いたのである。自分と同じ経験をしたイギリス人男性がおり、40歳をすぎてからわざわざ本に書かなくては気が済まないほど傷ついていたという事実になぐさめられたのだ。彼の言わんとしている恥ずかしさの感覚が、私には100%わかる。われわれは完全に同じ経験をしたのだ。
マシューが言った。「ロバートを見ろよ! いい靴下だな、ロバート! ハハハハ! 私はロバート、女の子よ!」他の男子たちも周りに集まり始めた。最悪だ。
同志よ。まったく同じ状況をくぐり抜けた私は、この最悪さが寸分たがわず理解できる。周りに人が集まり始めてしまうのだ。なぜ女性用の靴下を履くというだけのことが、これほどの騒ぎになるのか。ここで著者は、小学生の男子生徒がすでに内面化してしまっている歪んだジェンダー観、コミュニケーションのコードについて語っているのだ。「(男子生徒には)絶対にされたくないこと、なりたくないものがあるのだ。たとえば『女みたい』と言われることもその一つだ。それまでに何をしていても、『女みたい』と言われてしまえばすべてが台無しになる」。なぜそのようないびつな基準が、たかだか9歳だか10歳の子どもの内面にインストール済みなのか。かかる歪みを見つめ直そうとするのが本書の目的となる。著者は過去の自分をふりかえり、こう述べている。「七歳の時点の僕に『男らしさ』の定義を問うたなら、以下の二つの条件が返事になるだろう。条件①は『同性愛を嫌うこと』、そして条件②は『絶対に女を見下すこと』である。男たるもの絶対にゲイにはなりたくない、そして、女の子と遊ぶのはゲイだけ、それが間違いなく男らしい男の考え方であると、僕は思っていた」*1。
男の子が抱えるにふさわしい感情
著者の育った環境は厳しいものだった。子どもへの体罰を日常的に行い、つねに暴力的で、浮気をしては母親を苦しませる父親。男らしくなければいじめの対象にされてしまう学校やコミュニティで、周囲に潰されないよう自己を鍛え、ひたすら男らしくなろうと苦心していたふたりの兄。身体を壊して早くに亡くなってしまった母親。こうした環境のなかで、著者もまた自分の感情をおさえ、強い人間としてふるまう方法を学ばざるを得なかった。本当は詩やシェイクスピアに興味があり、コメディや音楽が好きだった著者も、そのような自己は決して表に出すことができない(詩が好きだなんて、口が裂けても言えない)。しかし、こうした虚しい努力は、みずからの感情の喪失につながってしまうと著者は警告する。自分の感情がわからなくなってしまう、と彼は言うのだ。
男性に対して「めそめそするな(マン・アップ)」とか「男らしく」とか言ってしまう人は多い。優しい人でも悪気なくそういうことを言う。「男らしく」という言葉は、「たとえ辛い気持ちを抱えていても、それを口にするな」ということでもある。ずっとそう言われ続けていると、男の子はやがて、不思議なことに「辛い気持ちを抱えること自体がいけないことなのだ」と言われるように感じ始める。「痛み、罪悪感、悲しみ、恐れ、不安──そんなのは、男の子が抱えるにふさわしい感情ではない」そう言われているように思う。男と生まれた以上、そんな感情を持つことは許されないと思い始めるのだ。
男性性への固執は男女双方にとって不幸だ
とはいえ著者は、前提として彼自身が恵まれた立場にいることを認めている。彼が男性であることで損をしていて、女性が得をしているなどとはまったく考えていない。「僕は健康だし、そして白人の男性だ。身体的、精神的な病気によって死にそうなほど深刻な状況に追い込まれたことはない(少なくとも今は)。ある程度の教養を持った中産階級の人間で、自分の好きなことを職業にしていて、仕事に困ることはなく、けっこうな収入を得ている」。著者が、あくまで運のよさによって恵まれた状況を得たと前置きした上で伝えようとしているのは、男性性への固執は男女双方にとって不幸な結果になるので、そこから離脱すべきだということだ。著者はこのように書く。
僕はこれまで何度かジェンダーに関連する文章を書いてきたが、それに強硬な反対意見を寄せてきた人は例外なく、「男は常に男らしくしろ、堂々としていろ」と言いたがる男性たちだった。そういう男性の中には立派な紳士もいれば、青少年も、子供を持つ父親もいるだろう。僕が彼らに言いたいのは、そういう考え方は男たち自身も救わないし、他の誰も救わないということだ。問題を抱えている男性の多くは、まさに、男らしく常に堂々としていようと努めていることが原因でそうなっているのだ。自殺が男性に多いのはなぜか。それは、誰かに助けを求めることができないからだ。誰かの助けを求めることは男らしくないと繰り返し言い聞かされてきたせいだ。
もう言い訳するわけにはいかない
男性は、自分自身を救うためにも、男性性から離脱しなくてはならないのである。著者が、実際に結婚をして2児の父となって痛感したのは、自分もまた「ありきたりな男性」のひとりであったという認めがたい事実だ。野蛮でがさつな父親のような人間は嫌だ、家族を顧みないあの父親のようにだけはなりたくないと考えていたはずの彼ですら、実際に家族を持ってみたとき、理想の父親にはほど遠い、著者自身が忌み嫌っていたはずの「ありきたりな男性」そのもののふるまいをしてしまっていたことに気づいたという。それほどに男性性の弊害は根が深い。「現状では男に生まれるだけで余計な荷物を背負わされているので、それに気づくべきだと言いたいのだ。その荷物は本当は必要のないもののはずだ。その荷物に、男性は足を引っ張られている。自分の生き方ができう、他人に決められた生き方をさせられている」と著者は主張する。だからこそ、男性性から離脱すべきなのだと。
家族がありながらアルコールに逃げてしまう自分を反省し、よりよき父親になりたいと決意して締めくくる本書には、男性性のやっかいさに悩まされた著者がようやくたどり着いた自由な生き方がある。かつてイン・エクセスやリック・アストレー、ブロスを聴きながら将来を夢見ていたイギリスの青年は、やがて父親となった。親には責任がある。自身が言うように「誰かを愛したり、誰かに愛されてしまっていることに気づいたら、もう言い訳するわけにはいかない」のであり、彼は夫として、父親としてやるべきことがまだたくさん残っているのだ。そして、父親として大切な役割を担っていくために、「男らしさ」は不必要なのである。
*1 男性性を成立させるための条件として、7歳の著者が考えた ①『同性愛を嫌うこと』②『絶対に女を見下すこと』とは、イヴ・K・セジウィック『男同士の絆 イギリス文学とホモソーシャルな欲望』(名古屋大学出版会)においてセジウィックが主張する「ホモソーシャル社会の成立条件」についての見立てと完全に一致する。ぜひ一読をおすすめしたい。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?