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ジュリア・フィリップス『消失の惑星【ほし】』(早川書房)

連続する消失

ロシア、カムチャッカ半島。海岸で遊ぶふたりの幼い姉妹が誘拐される、というショッキングな冒頭は、読者にサスペンス的な追跡劇を予想させるのだが、物語は意外にも、誘拐事件の顛末や犯人探しとは別の方向へ進んでいく。米作家ジュリア・フィリップスの小説『消失の惑星【ほし】』には、カムチャッカ半島に住む数多くの女性が現れるのだが、彼女たちはそれぞれの人生模様を少しだけ垣間見せると、次の女性にバトンを渡して物語から去っていくのだ。群像劇の形式を取った小説なのだが、読者は登場人物たちの人生を見守りつつも、姉妹の安否を忘れるわけにはいかない。ところが姉妹が見つかる気配はなく、「誘拐されてからこれほど時間が経ってしまったら、あの姉妹はもう助からないのではないか」と諦念を抱きながら、ページを繰っていくことになる。

『消失の惑星』のタイトル通り、この物語ではさまざまな消失が描かれていく。幼い姉妹だけではない。周囲からあばずれ女だとうわさされた女子高生は失踪し、とある女性の飼っていた犬もどこかへ逃げてしまう。重い病気にかかり、手術を受ける女性。事故で夫を失った未亡人。時が経つにつれ、カムチャッカ半島における喪失の総量は増していき、さまざまなものごとが消え去ってしまう。しかしここで、失われたのであれば取り返しに行けばいいではないか、とならないのがこの小説の特徴である。どうあがいても、失われた何かは戻ってこない。登場する人びとは、ただ喪失に耐え、不在に慣れるしかないのである。かかる諦念がストーリー全体に重苦しく充満しているため、読者がそれとなく期待した「幼い姉妹を探し出すサスペンス小説」は展開される見込みがないように感じられる。

喪失はつねに突然のできごとである

もし何かが失われるとして、事前に予兆なり、心の準備なりができればまだいいのだが、現実における喪失は唐突にやってきて、大切な存在を奪うとあっさりと去ってしまう。そのすべてに何の前触れもなく、いきなりであることが本作の特徴ではないか。喪失の残酷さは、その唐突さによって強調される。いったん消失してしまうと、もう取り戻すための手がかりはなく、残された者たちはただ自分の非力さに落ち込むことしかできない。失われたものを探しようにも、どこをどう探せばいいのかわからないのだ。確かに、何かが失われるとき、現実は前もって親切にお知らせなどしてくれないものである。そこで登場人物に残された選択肢といえば、自棄になってすべてを破壊するぐらいではないか。

愚かな者たちは、鍵の壊れたドアをそのままにしていたせいで、あるいは我が子をひとりにしたせいで、戻ってきたときに、自分が何より大切にしていたものが消えているのを知る。それに耐えられないのなら。その手で破壊してしまいなさい。目撃者になりなさい。自分の人生が崩壊していく、その瞬間の。

それにしても、何という悲しみにあふれた文章だろうか。著者は1989年生まれの若い書き手だという。私がこの著者の年齢(32歳)の頃、喪失についてなどほとんど考えていなかったし、自分はまだ若く、何でもできるような気がしていたものだから、著者がこの若さで、ここまで鮮烈な「喪失」の感覚を小説にしたことに驚いてしまった。もちろん、若くして喪失を経験する人もいるだろうし、あまり年齢とは関係のないことなのかもしれないが、非常に成熟した書き手だという印象を持った。また、読み進めながら、これはひとつの小説としてしかるべき場所へ着地できるのだろうかと気になっていたが、読み終えてみれば、しっかりと物語を閉じる構成になっていた点も気に入っている。とはいえ、著者が本当に目指していたのは、ただ喪失のみが積み重なっていく中盤の重苦しさであったとは思うのだが。

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