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『娘十六ジャズ祭り』と、夢のようなアメリカ文化

渋谷シネマヴェーラの特集上映「秋の新東宝祭」にて鑑賞。ジャズを基調とした和製ミュージカル・コメディです。劇中、フリッツ・ラングの『復讐は俺に任せろ』(1953)の看板を手にした人物が現れるなど、当時の映画シーンが垣間見れる場面もありました。

アメリカ文化への強烈な憧れ

1954年公開のミュージカル映画『娘十六ジャズ祭り』でなにより印象に残るのは、アメリカ文化への強烈な憧れです。音楽(ジャズ)だけではなく、ファッションや生活スタイル、盛り場の描写など、どれも戦後の開放感にあふれ、魅惑的なアメリカ文化を全身に浴びた若者たちの姿が描かれています。このからっとした明るさに魅了されると同時に、ジャズとはこれほどに人びとの心を揺さぶった音楽だったのかと再認識しました。ほんの9年前まで「鬼畜米英」と鼻息荒く戦争していた国とは思えないほど、アメリカ文化を満喫している市井の人びと。あるいはこの変わり身の早さ、ポジティブな軽薄さこそが、戦後急成長の秘訣だったのではと想像してしまいます。

主人公のみゆき(雪村いづみ)は戦争孤児で身寄りもなく、東京へ出てきた16歳の少女。行き場のない彼女は、盛り場でジャズを演奏する若者たちと出会い、彼らのアパートへ転がり込み、一緒に住むこととなります。ジャズで意気投合した彼らは、いつか音楽で成功することを夢見ながら活動していきます。ようやくエージェントが見つかった彼らは、音楽イベント「新春ジャズ祭り」で演奏することになりますが、みゆきにまつわる思いもよらない事実が判明し、周囲は激しく動揺するのでした。

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まぶしいばかりの性善説

冒頭、夜の町をうろつく主人公のみゆきが、警官に誰何すいかされるシーンから、この映画の微笑ましいコメディタッチは存分に発揮されています。「どこから来たんだね」「あっち」「あっち(手帳に書き留める警官)。それでどこへ行くんだい」「そっち」「そっち、ね(またしても手帳にメモ)」というとぼけたやり取りから、この映画が安心して見られるほのぼのとした喜劇であることがただちに伝わります。フランキー堺と高島忠夫のコンビは全編に渡るコメディーリリーフとして手がたい活躍を見せ、歌、踊り、笑いと三拍子揃った演技を披露しています。元気よくルンバを歌うフランキー堺は実にいいですし、ややリーゼント風に髪をなでつけ、コンバースのような黒いスニーカーを履いた高島忠夫を見ながら、1954年にはもうスニーカーが日本へ入ってきていたのだなと発見もありました。

主人公たちに嫌がらせをするやくざ者に、なぜかみんなで「ジングルベル」を歌って家から追い出すシーンなど、やくざをクリスマスソングで撃退してしまうというアイデアの突拍子もなさに笑ってしまいましたし(なぜあのような変わった場面を入れたのか、いまだによくわかりません)、子どもの盲腸の手術代を稼ぐためにエージェントの社長宅へ出かけると、ずいぶん気前よく医療費を貸してくれる場面など、まぶしいばかりの性善説に胸が打たれます。個人的に「善人ばかりが出てくる映画」というのがとても好きで、そのポジティブな世界観にぐっとくるのです。ラストシーン、新春ジャズ祭りで高らかに歌う雪村いづみを見ながら、「世の中悪いことばかりじゃない」と思えた、楽しい作品でした。

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