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親切は恥ずかしいことではない

私は、一部の男性に特有の「異性に対して親切にしたにもかかわらず、代償(恋愛関係や性行為)がともなわないと、損をした気になったり、相手からばかにされたような負の感情を抱く」という傾向が苦手だ。あれはいったい何なのだろうか。親切や思いやりに、損得を持ち込む発想は貧しいのではないか。ダサっ。みっともないので、できれば都の条例とかで禁止にしてほしいと思っている。「都合のいい男」「優しいだけの人」と思われることをなにより嫌い、どうにかして相手の女性からリターン(恋愛関係や性行為)を引き出さなくてはと躍起な人を見ると、こっちが恥ずかしくなってくるのだ。また、友人として純粋に女性の手助けをする男性を軽蔑するのもこの手合いである。きっと、性的な関係に持ち込めないのは「男の沽券に関わる」などと思っているのだろうけれど、ずいぶんケチくさく狭量な考え方だと悲しくなる。もっと大きな心で、寛容に人と接してみてはどうだろうか。沽券という言葉は口にするのも恥ずかしいので、私は要らないですね。

思うに、他者に親切を施す人のほとんどは、そうすると気分がいいから、自分が幸福になるから親切にするのであって、なんらかの報酬を求めているわけではない。誰かに親切にした時点で、本人の満足メーターは100%に達しているので、それ以上のなにかを求める必要がないのである。一般的な親切は、姑息な計算や報酬への期待、卑しい下心にもとづいて行われるのではなく、目の前で転んだ人を見たときに、思わず「大丈夫ですか」と声をかけるような、ある種の反射や習慣的な行動としてなされることが多い。こうした意見に「そんな都合のいい話があるか、人は損得で動くものだ」などとムキになって反論する方は、注意が必要である。世の中でごく自然に生まれる人と人とのつながりや、助け合いの関係性から弾かれている可能性があるためだ。まわりの人に優しくしていますか? 世の中には、親切な心の持ち主が思ったよりたくさんいるものだ。そして、たいていの親切は自然発生的である。そうした親切心を施したり、誰かから施されたりする、あたたかい関係性の輪から疎外されては、かなり生きにくいだろうと思う。

では「異性(女性)には親切にしないが、同性(男性)には親切する男性」は、実際どのていど存在するのだろうか。私が知っている親切な人は、基本的に1年365日、全方位的に親切を発揮しているので、性別などという些細な要因でその度合いが変化するとは思えない。また「女性に対する親切には、条件や代償の別基準を設ける」という態度はシンプルに性差別的なのでダサいし、そもそも親切を「支払ったコストと、それに見合ったリターン」と考えている時点で、それは人間関係というより商取引に近い。こうした理由から、同性(の男性)に対してのみ、汲めども尽きぬ無償の親切心が湧き出てくるといった事態は考えにくいのである。親切な人はおおむね、他者に対してフラットに親切ではないだろうか。逆に、とにかく自分が損したくないという発想が根底にある場合、親切も出し惜しみするようになるし、結果的には思いやりをベースにした人間関係の輪に参加できなくなってしまう。だって、そんな世知辛い人イヤじゃん。「自分の支払った親切のリターンを得られない」と屈辱に思うのは、人生のコスパ思考という感じで息苦しい。そんな窮屈な生き方をしている男性は、ますます疎外されるだけではないだろうか。

私自身も経験があるが、周囲に親切にすることで自分が救われる感覚は確実に存在する。その充足を感じられない人生は虚しいのではないか。こうした考え方を綺麗事だとしか思えない人は、いったん落ち着いてヨガとか瞑想、あるいは部屋の掃除をした方がいい。異性を友人として親切に接する男性を「お人好しだ」「そこまで尽くして、相手と性行為できないとは情けない」とばかにするのは自由だが、その男性が友人関係を通じて得ている精神的な満足がどのようなものかについて、想像してみることも必要だろう。その男性は、異性の友人を大切にすることで、みずからが救われたり、なぐさめを感じている可能性があるではないか。私たちはそのようにしてお互いの親切をやり取りしながら日々を暮らしているのであって、収支表とにらめっこしながら生きているわけではない。あるいは一部の男性は、異性との関係を簒奪のゲームだと考え、見返りを求めない親切を恥ずかしいものと思っているかもしれないが、親切は恥ずかしいことではないし、いくらお人好しと言われても、当の本人がいちばん満足しているのだから、親切は止めようがないのである。

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