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『ノマドランド』と、包摂を止めた社会

セーフティーネットからこぼれ落ちた人びと

「ノマド(流浪民)って、昔の開拓者に似てるよね。アメリカの伝統だと思う」と声をかける主人公の妹。刺々しい会話の雰囲気を和らげるために気を遣ってかけた言葉のはずですが、主人公ファーン(フランシス・マクドーマンド)の苛立った表情からは、妹の発言はあきらかに余計だったことが伺えます。キャンピングカーで暮らすほかない状況を、周囲が「放浪癖」「自由を求める精神」等と都合よく解釈する、その手前勝手さと無理解。60代になっても屋根のある家に住めないとは、いったいどのような社会なのか、見ていると暗澹たる気持ちにさせられます。かつて主人公は教師の仕事をしていましたが、元教え子にばったり出会い、「先生はいまホームレスなの?」と訊かれる場面で、取り繕うように「ホームレスではない、ハウスレスだ」と答えるくだりも記憶に残ります。主人公は、社会の包摂機能、セーフティーネットからこぼれ落ちてしまっていました。

『ノマドランド』は、ネバダ州に住む女性が主人公。夫が亡くなり、住んでいた町を支えていた企業がリーマンショックのあおりを受けて倒産し、暮らしの術を失うところから物語は始まります。小さなキャンピングカーに住みながら、Amazon の配送センターで働いてどうにか糊口をしのぐ主人公。よく Amazon がこの撮影を許可したものだと感じましたが、配送センターは清潔に管理されたディストピアにしか見えません。劇中では、キャンピングカーの駐車場代を Amazon が負担する契約になっているのですが、ここで疑問が湧きます。いったい Amazon は主人公を助けているのでしょうか、それとも搾取しているのでしょうか。家のない人を雇用するのであれば、社宅を用意すべきではと思いますが、あるいはそれは私企業ではなく国が行うべきなのかもしれないとも感じます。なぜ Amazon は、従業員が車中泊しながら労働する状況をよしとしているのか、そこが不可解でなりません。あるいは、駐車場代を出すだけマシだと考えた方がいいのか。劇中、主人公以外にも家のない従業員が多数おり、Amazon はそうした労働者を(家がないことを承知しながら)雇用していますが、かかる事態は非倫理的に見えてどうにも受け入れがたく、いったいどこに対して異議申し立てをすればいいのかと悩んでしまいました。

共産主義的なコミュニティ

劇中でも言及される2008年のリーマンショックは、作品の主要テーマに大きく関わってきます。資本主義の実態のなさ、際限のない破壊性が剥き出しとなったリーマンショックは、キャンピングカー暮らしを余儀なくされた高齢者たちを容赦なく襲います。ここで興味ぶかいのは、流浪民たちが共産主義的なコミュニティを形成している点です。食事を分け合い、足りないものを都合してやり、お互いの面倒を見たり、情報を共有しながら協力して生活しています。そうすることで生活面、精神面での支えを作っている。こうしたコミュニティは、スタインベックの小説『怒りの葡萄』に類似しています。『怒りの葡萄』もまた、職にあぶれた貧しい人びとが、お互いを助け合うネットワークを形成する物語でした。アメリカの共産主義アレルギーはよく知られるところですが(共産主義的な思想を持つ人物は commy 等と呼ばれ軽蔑されます)、ひとたび社会の包摂の網から抜け落ちてしまうと、そこで人びとは共産主義的な相互補助を進めていくしかない。そうしなければ暮らしていけないのです。

食べ物がある人間は、飢えた人間に食べさせてやり、それによって自分が飢えたときの保障を得た。赤ん坊が死ねば、戸口に銀貨が積まれた。赤ん坊は、死の他に一生から得たものがなかったから、手厚く葬られなければならなかった。年寄りは無縁墓地に埋められてもかまわないが、赤ん坊はそうはいかない。(『怒りの葡萄』新潮社)

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資本主義の限界

人類学者デイヴィッド・グレーバーが指摘する通り、いかに共産主義にアレルギーのある人物でも、日々の暮らしのなかでは共産主義的にふるまうことなしに生きていけません。たとえば友人と食事をしていて、「コショウの瓶を取って」と頼まれたとき、誰も決して「その依頼を引き受けることは、自分にとっていかほどの利益があるのか?」とは問いません。そこでコショウの瓶を渡してあげることは、まさしく共産主義的なふるまいなのだとグレーバーは指摘します。もし道を歩いている誰かがモノを落とせば、周りの人が「落としましたよ」と声をかける。その行為が何の利益にもならないとわかっていても、われわれはほとんど反射的にそうするのです。『怒りの葡萄』に登場する農園主が、賃金を上げるよう交渉するのは「アカだ」と怒りをあらわにする場面がありますが、そうした農園主さえ、友人に対しては共産主義のふるまいをしているはずなのです。アメリカの抱える共産主義アレルギーという宿痾に、『ノマドランド』はひるむことなく迫っていきます。思えばグレーバーもまた、リーマンショックと金融業界の強欲に異を唱えた人物でした。

アメリカの美しい自然風景がとらえられたショットはみごとですが、車中泊を繰りかえしながら移動しつづけるほかない主人公の暮らしはあまりに寄る辺なく、見ていて将来の不安がよぎってしまいます。風景が美しければ美しいほど、やるせない気持ちにさせられてしまう。この対比の鮮烈さが『ノマドランド』の特徴なのかもしれません。車のエンジンが故障してしまい、修理費の工面のために、家族へ金の無心の電話をかける場面など、そのみじめさにスクリーンを直視できないほどです。自立心の強い主人公にとって、知り合いの家に居候する生活は耐えがたく、結局はキャンピングカーに戻ってくるほかない。社会の包摂から落ちこぼれた者だけが目にする、あまりにも美しいアメリカの自然は痛々しいものがあります。主人公が渡り歩くアメリカの風景を眺めていると、もう資本主義の仕組みじたいが限界に来ているのではないかという気にさせられるのです。

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