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とあるアラ子さんの漫画がすごくよかった、という話

ルッキズムの複雑さを描く

漫画家、とあるアラ子さんの作品を読んだ。ルッキズムがテーマで、現在、単行本が4巻まで刊行されている。主人公は、容姿にコンプレックスを持つ女性、山井知子。彼女はある日、たまたま立ち読みした雑誌の記事で、かつて高校時代に自分の容姿をあざ笑っていた同級生、白根しらね梨花が有名人になっていると気づく。白根はたいへんな美人であり、高校時代の山井に対して「(容姿の悪い人間は)世界にいらない」と言い放って、山井の心に深い傷を残していた。そんな白根は現在、あろうことかインタビューで、容姿の束縛から自由になるべきと反ルッキズムを主張し、「全ての女性に自信と輝きを」などと白々しく語っているのだった。許せない。白根の愚行は万死に値する、と怒りに震える主人公は、復讐のため、かばんに包丁を忍ばせて白根の働く事務所へ出向くのだが……というあらすじだ。さっそく冒頭から燃える展開である。まさにルッキズム版『キル・ビル』。元タイトルの韻の踏み方を日本語に置き換えると、邦題はやはり『シネ・シラネ』だろうか。いいぞ、白根をひとおもいにってほしい、と私は思った。血で血をあらう抗争の幕開けである。

さて、ここから作品の紹介をしたいのだが、事前にひとつ断りを入れたい。作品のタイトルに、女性の容姿をけなす言葉が使用されている点である。私はこの罵倒語に対してどうにもアレルギーがあり、できれば文字情報として残したくないのである。いままで実人生でこの言葉を人に向けて言ったことは一度もないし、耳にしただけでぞわっと震えてしまう。本作が、ルッキズムの残酷さを表現するためにあえてこの言葉を使った意図はわかるし、その選択は正しいのだが、男性の自分が口にする(文字として残す)となると、タイトルであっても居心地が悪いのである。英語には、Fワード、Nワードなどの禁止用語があるが、私にとってこの言葉はBワードであり、作品タイトルとはいえ記載するのがキツいと思ってしまう。作品タイトルなのだから記載すべきではないか、それを言うなら市川準監督、富田靖子主演の1987年公開映画はどうするのか(私は傑作だと思うし、深く愛しているのだが、タイトルを口に出して言えないので、人と感想を話せない)など、迷いはある。ライターをしているので、記事で作品名を正確に記すべきだとは思うのだが、心理的抵抗があり、作品タイトルは記載せずに論を進めさせてもらいたい。スイマセン。

積年のルサンチマン

まずは主人公、山井の人物造形に惹かれた。見た目をからかわれることに疲れた彼女は、マスクと眼鏡でつねに顔を隠して歩いている女性だ。容姿コンプレックスでふくれ上がった憎悪を胸に、面接と偽ってかつての同級生・白根を訪ね、包丁を振りかざして怒りをあらわにする。まずは、この場面の迫真に胸を打たれた。実にすばらしい。山井は言う。「現実では、テレビでもネットでも雑誌でも広告でも、自分と真逆の顔の人間が美しいと持て囃されてる。そんな世の中で、必死で正気を保って生きてる人間の気持ちが、お前らにわかんのかよ?」。包丁を握りしめて叫ぶ彼女の、積年のルサンチマンが伝わってくるようだった。みずからの容姿の欠点が一度頭にこびりつくと、人生でうまく行かないことのすべてが、容姿のまずさに結びついているような気がして、その閉塞感から逃げられなくなってしまう。もちろん現実には、うまくいかないことの原因が容姿のまずさだけに起因するものではないが、本人にとってはそれがもっとも説得力がある理由になるため、かかる思い込みを解消するのが難しいのだ。ましてやこのSNS時代、容姿を重視する傾向には抗えないと感じてしまうだろう。

山井、命がけの主張

白根は、面接で包丁を振りまわした山井を、みずからの会社の従業員として採用する。反目しあったふたりが、同じ会社で働くことになったのだ。ずいぶんな肝っ玉社長である。現実の白根は、容姿に恵まれているが故の苦悩を生きる女性だった。よく知らない男性から一方的に好意を持たれ、ストーカー被害で何度も引っ越しを余儀なくされ、あらぬ誤解をされ続け、仕事でいくら努力しても「顔で選ばれた」「見た目で勝った」と嫌味を言われる。ことほどさように「私には私の人生の地獄があるし、あなたにはあなたの地獄がある」(©宇垣美里)のだが、こうした苦悩を山井は知らない。かくして1巻からさっそく、本作のテーマであるルッキズムの複雑さがあらわになる。登場人物はみな、それぞれ違うしかたでルッキズムの弊害と関わっているのだった。みずからの容姿のまずさを売りにして女芸人としてのし上がった山本は、ある時期を境に自虐的な容姿いじりがウケなくなり、芸人を廃業した。カメラマンの男性、小坂は、顔は美形なのだが背が低く、これまでに女性から言われた身長にまつわる心ない言葉を反芻するうちに、女性への憎悪が膨らみつつある。プラスサイズモデルの奈緒美は、SNSに自撮りを上げるたびに、男性からの誹謗中傷が耐えない。あらゆる立場の人に容姿コンプレックスや悩みがあり、誰もが「自分は被害者だ」と感じているとき、取るべき正しい態度とはなにか、よくわからなくなってくる。

宇垣さんっぽくてイイね

美しい容姿にどうしようもなく惹かれる側面

ルッキズムの多層性は本作のテーマで、読んでいると「これは正解が見つからない……」と唸ってしまうような展開の連続だ。ルッキズムはよくないはずなのだが、容姿のいいタレントに対して「顔面大優勝」などと、あからさまな言及があるのは、SNSなどでもよく見かける光景である。「顔面大優勝」って、まあまあデリカシーに欠ける言葉だと思うがどうだろうか。「大」がついていればいいってものではない。作品内に登場する地下アイドルグループのメンバー・リクトは、ファンに「存在自体が尊い」などと言われ、「どうせ顔だけが好きなんだろ?」と不満をあらわにする。というのも、ダンスも歌も苦手なリクトは、顔がいいというだけで人気投票のトップに躍り出てしまった状況に苦悩していたのだ。見た目がよい、という身体的特徴を「才能」と考えてよいのだろうか? 非常にややこしい問題だ。反ルッキズムの主張は「人は容姿ではなく、内面や行動で評価されるべきだ」となる。イエス。とはいえわれわれは、美しい容姿にどうしようもなく惹かれる側面がある。この動かしがたい事実と反ルッキズムとのあいだで、どう整合性を取ればいいのか。なぜわれわれは、こうも容姿に翻弄されるのか。考えると頭が痛くなってくることばかりだ。答えの出にくいルッキズムの多層性をそのまま提示することこそ、著者の誠実さであると感じた。

自虐ネタで頑張った山本

私個人で言えば、過去にまわりから容姿をけなされて嫌な思いをしたことは多々あるが、あまり他人の容姿に関心がない、という性格があり、そこまでルッキズムで苦しんだり、振りまわされずに生きてこれた方だと思う。なんというか、「面食い」の感覚がよくわからない。美人を見ればたしかに美しいとは思うが、だからといってその人に執着したり、自分のコンプレックスがふくれ上がったりはしなかった。私はとにかく会話が好きで、おもしろいキーワードが出てくる人、発想が豊かな人に惹かれる傾向がある。言葉がなにより大事で、いい言葉が出てくる人と一緒にいたいと思うので、会話に個性がある人、ユーモアのセンスがある人が最優先になるのだ。自分には思いつかないような奇想天外なワードを平然と出してくる人に会うと、「すごい!」と興奮してしまうようなところがあり、その感動にくらべたら、容姿は些末な問題にすぎない。この作品を読んでいると、容姿で苦しむにしても、その方向性は人によってずいぶん違うし、誰がより苦しんでいるかを比較しても仕方がないという気になってくる。ルッキズムを解消するのはきっと別の道なのだろう。本作が以降、どのような道すじを辿っていくのかがとても楽しみである。

【追記】
最後に、これはちょっと自意識過剰な気もするのですが、本作の4巻に登場する美容ライター、神足こうたりケンヤのモデルは、私こと伊藤なのではないかしら……ということを書いておきたい(もちろん勘違いかもしれないので、そう思ったという話です)。私が昨年に出した美容本『電車の窓に映った自分が死んだ父に見えた日、スキンケアはじめました。』(平凡社)を担当した編集者さんから「この漫画の感想を聞きたい」とオススメされたことで手に取ったのですが、作品内で神足が美容ライターとして仕事をすることになったきっかけなどが、結構「電父」な感じがして、漫画を読みながら「これって、人生初の漫画出演と言っていいのだろうか」とニンマリしました。いや、違うかも知れないですよ。勘違いかもしれない。でも、もしかすると、こんなにおもしろくてためになる漫画にカメオ出演させてもらったのだろうか、もしそうだとしたら嬉しい~〜という気持ちです。違ったとしたら相当恥ずかしいのですが、気になる電父読者の方がいたら読んでみてください。

これが私かもしれない人です
見る/見られるの関係性

【美容ライター伊藤の美容本こちらです】

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