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表現に保険をかけない

不必要な言い訳をしてしまう

文章を書くとき、SNSで発言するとき、どうしても不必要な言い訳を入れてしまうくせがついている。「個人的には」「全員に当てはまるわけではないが」「例外もあるが」などと予防線を張って、後から指摘されないよう、あらかじめ保険をかけておくのである。下らないと思いつつ、なかなかやめられない。特に原稿料が出る商業媒体だと、下手なことで媒体側に迷惑をかけたくないという気持ちが先だって、気がつけば何やら細かい説明と注意書きだらけの文章ができあがってしまうのである。

つまりは怖れているのだ。「主語が大きい」というお決まりの非難や、内容を曲解されて面倒な事態に巻き込まれることが嫌なのである。だからこそ誤解が生じないよう、意図せぬ読まれ方をしないよう、そこかしこに注釈を仕込む。しかし、そうした言い訳だらけの文章を目にして誰が楽しいだろうか。書き手の心情は、姑息な注釈でかき消される。書いている私も、読んでいる側も、「ああ、これは後で面倒なことにならないように、事前に免責をしているのだな」としか思わないのだから。これでは申立書や約款、利用規約のたぐいであり、人の心を動かす表現ではない。私はもっと率直な文章が書きたいのだ。自分でも「いったい何を書いているんだ」と情けなくなることがある。

是枝監督の覚悟

映画監督の是枝裕和は、水泳選手の池江璃花子を題材にした映像作品を撮っており、そのことで批判を受けたという。先日公開された文章では、その顛末がていねいに説明されているのだが、私は以下のくだりを読んで、監督のまっとうな主張と覚悟の違いに自分が情けなくなり、しばらく落ち込んでしまった。監督は映像作品を通して「運命は変えられると考えながら彼女(池江選手)は努力している」というメッセージを伝えようと考えていた。この言葉は曲解される可能性もあるだろうと、監督は予想していたという。

正直「じゃあ同じ病気で死んだ私の母は努力が足りなかったのか。傷ついた」というような類の批判がまっとうだとは僕は全く考えていない。彼女があなたの母親に対してそう考えてはいないことくらい言外とか行間とか、ふくみとか間とかで感じて欲しいと心底思うけど、そうはいかないやっかいな現実がネットを支配していることくらいわかっている。その現実と妥協して、表現の角を丸くしたりエクスキューズを散りばめたりすることはしないけれど、「作品」に関わった方々に現実に火の粉が降りかかる以上、対処法は考える。したがって、10分強の映像そのものの中にはそのようなメッセージは何とか含まずに完成させているつもりでいた。

「表現の角を丸くしたりエクスキューズを散りばめたりすることはしない」と監督は書いていた。そうしてはいけないと、監督は考えていたのだ。なぜなら作品内で言い訳をすれば、表現全体の質を落とし、メッセージの信頼度を下げるため、そうしないのである。池江選手という、病に苦しむ自分自身をさらけ出して生きる個人がいて、彼女と向き合う映像作品を撮っているのに、その製作者が、自分だけは傷つかないようにと言い訳をぬかりなく準備し、痛い目にあわないようにと保険をかけて防御していたら、観客はその作品を信用するだろうか。作り手が無防備にならなければ伝わらないものがあると私は思う。

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「ふくみとか間とかで感じて欲しい」

「言外とか行間とか、ふくみとか間とかで感じて欲しい」と監督は書いた。まさにその通りなのだ。映像を見れば、あるいは文章を読めば、その表現に人を傷つけたり差別したりする意図があるかどうかは伝わる。ほんらい、そこに誤解の余地は生じないはずなのである。一方、余計な注釈を入れたとたん、表現は温度を失っていくように思う。メッセージの受け取り方を、作り手が説明書のようにひとつひとつ指示していく表現など、とても入り込めない。表現がゼロリスクを目指そうとすると、おのずと夾雑物が多くなっていく。監督が述べるように、映像作品のなかで余計な言い訳をしないことは、メッセージの純度を保つために譲れない一線なのだ。いままでの自分が恥ずかしくて、海に飛び込みたくなってきた。

もう言い訳や注釈だらけの文章は止めたい。難攻不落の城みたいな、どこから攻められても耐えきれる鉄壁の要塞みたいな文章を作ったところで、誰の心が動くのだろうか。たしかに批判はまぬがれた。要塞を作ったのだから。しかし、ただそれだけである。もっと無防備で、何の保険もかけていない、軽くて風通しのいい文章を読んだり書いたりしたい。私はこのところ、どうすれば世の中の風潮に抗えるだろうかとそればかり考えているのだ。

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