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『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』と、ユニバース化による映画の変質

レガシーを活用しながら新境地へ

トム・ホランドが主演をつとめる『スパイダーマン』シリーズの最新作は、思ってもみない展開の連続で観客を驚かせる、ファン感謝祭のようなフィルムに仕上がっています。内容に触れないよう説明するのは難しいのですが、今回はストーリーに関する言及はせずに書いてみようと思います。本作のあらすじは、宿敵ミステリオ(ジェイク・ギレンホール)によってスパイダーマンの正体は誰かを暴露されてしまったピーター・パーカー(トム・ホランド)が、世間の厳しい非難を浴びるところから始まります。ピーター本人だけではなく、恋人(ゼンデイヤ)や親友(ジェイコブ・バタロン)の日常生活にも悪い影響が及び、困った彼はドクター・ストレンジ(ベネディクト・カンバーバッチ)へ相談しに行きます。ドクター・ストレンジは、魔術を使って人びとの記憶から「スパイダーマンの正体は誰か」を消すことができると言うのですが……。

映画が「120分ですべてを語り切る」という従来の概念から変化している傾向は、広く指摘されています。ユニバース化や、フランチャイズにおける物語の連続性は多くの作品に取り入れられ、これまでは一話完結だった「007」も、前作のあらすじを引き継いだ広いスパンの展開が用意されるようになりました。『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は、そのきわめつけのような作品です。同作を十全に理解するには、ドクター・ストレンジが誰なのかはもちろん、MCU作品(空白の5年間とは?)や過去の『スパイダーマン』(サム・ライミ版や『アメイジング・スパイダーマン』)に登場したキャラクターについても知っておく必要があり、それらを踏まえた上でなければ伝わらない要素や目配せが多く含まれています。関連作品を理解した上で楽しむ作品であり、ユニバース化された作品の一部として理解するべきフィルムです。MCUユニバース、あるいはこれまでの『スパイダーマン』のレガシーを活用しながら新境地を切り開いたという意味で、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は実に感動的なフィルムでした。

吹き飛ばされる、親愛なる隣人(Your Friendly Neighborhood)

作品を単独で評価することは可能か

しかし同時に、本作単体で映画としての評価をくだすのは難しくなってしまいます。予備知識がないまま鑑賞した場合、理解できない要素が非常に多い。長らくMCUを楽しんできたファンとして、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は実に楽しく感動的な作品であり、そこに何の不満もないのですが、一方で従来的な映画の概念にこだわる自分がいて、「この作品を単独で評価することは可能なのか」という問いを立てているのも事実です。この映画をどう見ればいいのか、私自身あまりよくわかっていない。たとえば『アイアンマン』(2008)であれば、単独作品としての評価が可能です。何の予備知識もなく見れる娯楽作品として、完結したおもしろさがある『アイアンマン』は優れていると言えます。しかし『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』は多くの外部文脈に依存していて、独立した作品として鑑賞することができないのです。そして私はどこかで「映画は120分ですべてを語り切るべきだ」と感じていて、その整合性が取れていないままです。

MCUについては、これまで全作品を劇場で鑑賞しているし、ユニバース化を心ゆくまで堪能してきたひとりのファンでもあります。本作にも大いに満足している私がこのように考えているのもおかしな話なのですが、今後映画ファンは映画の向こう側にユニバースを見るようになる傾向が強まっていくのだと感じた『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』でした。ユニバース化した作品を個々で評価する場合、どのような尺度を用いればいいのか、単独作品としての意味合いをどうとらえればいいのかは、映画について考えることが好きな私にとって、なかなか難しい問題になりそうです。

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