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『モーリタニアン 黒塗りの記録』と、アメリカ映画における信念

グアンタナモ収容所での不当拘束

911テロに関与したという疑いで拘束されたモーリタニア人男性、モハメドゥ・ウルド・スラヒ(タヒール・ラヒム)。証拠もなく起訴もされないまま、14年に渡って不当に身柄を拘束され続けた男性と、彼を自由の身にするための裁判をたたかったアメリカ人弁護士ナンシー・ホランダー(ジョディ・フォスター)の姿を描いた作品が『モーリタニアン 黒塗りの記録』です。アメリカ政府が、キューバにあるグアンタナモ収容所へテロの容疑者を連れていって拘束し、「アメリカの憲法や法律が効力を持たない別の国にある施設だから」という理由で拷問を正当化していた事実は、報道やドキュメンタリー、数多くの映画によってあきらかにされています。本作も同様に、実在の人物と現実のできごとを扱いつつ、法廷ドラマ、信仰にまつわる物語として、実にアメリカ映画らしい展開をみせる作品です。

敬虔なイスラム教徒である主人公スラヒは、911テロ発生後、米政府によって拘束されます。彼がテロへ関与したことを示す証拠は見つかっていませんが、米政府はテロ事件の捜査が進んでおり、首謀者を見つけて罰する能力があるという体面を保つため、どうにか成果を挙げようと焦っています。そのため、過去にタリバンの軍事訓練に参加した経験のある主人公を「911テロの中心人物」として法廷へ連れていき、裁判手続きを経て死刑へ持ち込みたいと考えています。一方、米国で弁護士として働くホランダーは、起訴もされないまま長期に渡って拘束される人物がいると知り、プロボノ無償奉仕として彼を救い出す弁護を始めます。彼女は米政府へ関連文書の開示を要求しますが、そこで米政府が開示したのは、ほとんどが黒塗りされた文書でした。

価値観の異なる三者

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本作において重要なのは、3人の主要人物の価値観の違いです。拘束されたスラヒ、彼を弁護するホランダー、そして政府側の弁護士としてスラヒを有罪(死刑)に持ち込みたいスチュアート・カウチ中佐(ベネディクト・カンバーバッチ)は、ほんらいであれば相容れない価値観を抱く者たちでした。イスラム教徒であるスラヒ、キリスト教徒のカウチ中佐、特定の宗教を持たないホランダー。また政治思想的にホランダーは左派でしょうし、カウチ中佐はあきらかに右派ですが、スラヒにはこれといった政治的思想はないように見えます。性別や年齢、社会的立場も異なる三者は、スラヒの拘束というできごとがなければ交わることがなかったはずです。分断が進んでいる現代アメリカであれば、三者は決して合意に至らないでしょう。異なる背景を持つ彼らが物語において出会い、同じ結論にたどり着くまでの過程にはアメリカの理想がつまっており、胸を打ちます。

三者が信じたのは、憲法であり、法廷であり、信仰の教えでした。ここにアメリカ映画の真髄があり、米映画のエッセンスが凝縮されているように感じるのです。憲法・法廷・信仰に忠実であろうとすると、米政府の行いは間違っており、スラヒは拘束を解かれなくてはならない。ものごとの基準が不明瞭に見える世界であっても、この映画に登場する三者には「何を信じるべきか」について同じ基準が存在していたからこそ、良心に背かない判断ができた。本作がこの三者を信念を称える作りになっている点に、アメリカ映画の理想を見たように感じました。国を相手にした難しい裁判を無償奉仕でおこなうホランダーの姿勢にも頭が下がりますし、また本作のようにストレートな政府批判を映画作品として公開できる風通しのよさにも感動しました。

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