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『アメリカン・ユートピア』と、もっとも興味ぶかい観察対象としての人間

私たちはいつも人間を眺めている

「どうして、他の人間を眺めるのって楽しいんだろうか」とデイヴィッド・バーンは観客に問いかけます。「僕らは、自転車や、きれいな夕焼けや、ポテトチップスの袋やなんかを眺めたりもするけれど、なによりよく見ているのは他の人間の姿なんだよ。人間ほど見ていておもしろい対象はない」。映画全体を通して、もっとも印象に残るメッセージでした。なぜ人間を見ることはこれほどおもしろいのでしょうか。現在69歳のデイヴィッド・バーンが自由に踊り、歌い、表現するライブ・パフォーマンスを映画化した『アメリカン・ユートピア』を見た私は、彼が観客へ向けてその言葉を伝えたのはどうしてだろうかと考えています。

2019年、ブロードウェーで上演されたライブ演奏を映画化できないかと考えたデイヴィッド・バーンは、映画監督スパイク・リーにコンタクトを取りました。そこで完成したのが本作『アメリカン・ユートピア』なのですが、見終えた人がみな絶賛するのも納得の、みごとな大成功を収めた音楽映画といえます。デイヴィッド・バーンの被写体としての魅力について考えてみると、ジョナサン・デミ監督の『ストップ・メイキング・センス』(1984)を連想しますし、ショーン・ペンがロバート・スミス風のミュージシャンを演じた『きっと、ここが帰る場所』(2011)における演奏シーンもすばらしいものでした。本作では、ギターやベース以外にも、ドラムやキーボードといった楽器をすべてワイヤレスにした上で、演奏者がみな舞台上を自由に動き回る、斬新な演出が冴えています。

まずは何より、楽曲がすぐれていることは大前提なのですが、ユーモラスでかわいらしい振り付けに合わせて、演奏者全体がいきいきと踊る様子がすばらしい。 “Lazy” のどこか観客を挑発するような不遜さ、ふざけた歌詞にはしびれましたし、 “Slippery People” における「ペペペペペ」のかけ声がもたらすばかばかしさなど、実に心地よい。年齢とは無関係に、つねに自由で新しい風が吹いているようなデイヴィッド・バーンの姿に刺激されました。終演後に、若いバンドメンバーが興奮しながら “Yeah, that’s what I’m talkin’ about!” (ああ、こんなライブがしたかったんだ!)と感無量の声を上げる場面も忘れがたく、見ているこちらにまでその興奮が伝わってくるようでした。

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他者の訪問を心から歓迎できるか

冒頭の「人間がいちばんおもしろい」というデイヴィッド・バーンの問いかけに戻りましょう。彼がそんな話をした理由は “Everybody's Coming to My House” の演奏前に語った内容とつながってくるかもしれません。「みんなが僕の家に来る」という同曲の歌詞には、他人が自分の領域に侵入してくることへの不快感、「いつになったら帰るんだ」というニュアンスがあるとデイヴィッド・バーンは解説します。しかし、同じ曲をデトロイトの高校生に歌ってもらったところ、まったく同じ歌詞であるにもかかわらず、他者が家を訪問してくることを心から歓迎する曲に変わっていたというのです。なぜそのような変化が起こったのか。そしてデイヴィッド・バーンは、無意識のうちに他人との距離を取ろうとする自分自身を恥じるように “Unfortunately, I am what I am.”(まあ、私はもともとそういう性格だからね)と説明して観客の笑いを誘います。

この曲を通じてデイヴィッド・バーンは、本当に他者を歓迎し、共存するダイバーシティの態度を実行できているのかという根源的な問いを立てています。だからこそ『アメリカン・ユートピア』はこれほどに感動的なのです。人を寄せつけずに生きてきた自分の弱さを見つめ直しながら、最終的には「他の人間を見ることほどおもしろいことはない」「我々は人間に興味があるのだ」という結論にいたり、だからこそもっと心を開いて他者を受け入れようではないかというやさしいメッセージを発するのです。いま私自身も、彼とまったく同じような気持ちでいます。他人を受け入れて、会話し、お互いに心を委ねて生きていきたい。だって、人間の他におもしろいことなどないのだから。そう感じながら味わう21曲のパフォーマンスには、観客を勇気づけるエネルギーが満ちているのです。


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