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『メタモルフォーゼの縁側』と、誰かに発見されること

BLで意気投合したふたりの女性

『メタモルフォーゼの縁側』は「何かを好きになること」を描いた作品ですが、同時に「誰かに発見されること」にまつわる映画であるとも感じました。私たちはみな心のどこかで、「誰かに発見されたい」と願っているのではないでしょうか。周囲が私(の表面だけ)を見るのとは別のしかたで、私という人間の本質を見抜き、「あなたの真価はここにあるのだ」「だからこそ、あなたが必要なのだ」と指摘してくれる相手があらわれる瞬間を、心待ちにしているように思います。本作の主人公うらら(芦田愛菜)にとって、BLマンガとは「誰かに発見される」よろこびを描くジャンルでした。そして『メタモルフォーゼの縁側』は、未知の相手を発見し、相手とつながるよろこびを描いた物語として、非常に優れたものです。

書店でアルバイトする高校生うららは、学校では目立たない地味な生徒。BLマンガに深い愛情を抱いていましたが、同じ趣味を共有できる親友はまだ見つかっていません。書店でBLコーナーを展開し、自分のオススメマンガを並べていたうららは、ある日、雪(宮本信子)という老婦人が、自分の愛好するBLマンガを買っていく場面に遭遇します。驚くうらら。たびたび書店にやってくる雪を接客しているうち、ふたりはBLという共通項で意気投合し、友人となるのでした。うららは自分の書いたマンガを同人誌にして、即売会で販売してみたいと考え、雪と一緒に即売会へ参加することになったのですが……。

左にいるのはつむっち(この映画に出てくる誰よりも肌がきれい)

うらら=芦田愛菜の身体性

まず何より目を引くのは、主人公うららを演じる芦田愛菜が見せる、「オタクの身体」としか呼びようのない演技の巧みさです。BLマンガをこっそりと愛するオタクな少女という役柄を、身体のレベルから演じ切っているのがすばらしい。書店のレジを担当しているうららに、雪がBLマンガを差し出した瞬間に見せる、よろこびと驚きの入り混じった、少し前かがみの姿勢。あるいは「BLについて教えてほしい」と言われたうららが、大量のマンガを持参して雪の自宅を訪ね、一冊ずつ説明していくシーンで芦田が見せる、やや伏目がちな表情や、早口で持参したマンガを紹介しつつ、テーブルの上にマンガを置いていく一連の動作。こうした所作が、「オタクの身体」としか形容できないリアリティを宿しています。たとえば、原作マンガに出てくる以下の場面を見てください。

「べ」の濁音に宿るオタクの身体性

私は、このコマで描かれる「ベコッ」という不器用な会釈と走り去りに「オタクの身体性」を見て取ったのですが、この「ベコッ」からの「シャシャシャシャ」を実写で演じ、観客にうららのぎこちない身のこなしを印象づけた芦田はすばらしい、と感じたのです。軽い「ペコッ」ではなく、りきみのある「ベコッ」となってしまうあたりに、オタクの身体性が込められているといいますか……。表面的な口調やBL用語に頼るのではなく、身体そのものがBL好きの少女である点に胸を打たれました。

原作では、主人公の描いたマンガがどのような内容だったかは紹介されていないのですが、映画ではその全体が明かされています。映画全体の印象を決めかねない、かなり思い切った挑戦だと感じましたが、その内容がとてもよく、「BLとは誰かを発見することだ」という物語的なテーマに沿っていたのもすばらしいと感じました。劇場で映画を見終えたとき、私の座っていた後ろの席にいたふたりの女性が「うらっちは私だよ」「高校時代の私と完全に一致」と言いながら涙を拭っていたのを見かけました。このシンプルだが重みのある言葉こそが、映画化された『メタモルフォーゼの縁側』に対するもっとも適切な評であるようにも思えたのでした。

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