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映画の寿命

「映画の寿命はいつ終わるか」は、映画ファンのあいだでよく出てくる話題だ。1895年に始まったこのジャンルが、未来永劫なくならないとは思わない。映像でストーリーを語る、という形式そのものはあるていど続くと思うが、何か違う形になるかもしれない。いつかなくなってしまうジャンルだろうし、かつては「映画と自分の寿命でいったら、さすがに先に寿命が尽きるのは私の方だろう」と思ってきたが、そうでもないかもしれないという気もする。最近たまに「映画は意外に早く終わってしまうのではないか」ということを何となく思うようになった。

では、そもそも「映画」の定義とは何か、という話になるのだが、私にとっては「映画館で上映する映像作品であること」「約2時間ですべてが完結すること」の2点である。すなわち「映画館へ出かけて、2時間で物語が完結する映像作品を見る」という行為に何の意味も見出せなくなったとき、おそらく映画は終わる。わざわざそんなことしなくても、もっと便利で楽しい何かがある、となれば、映画は消失するだろう。これはうまく説明できないのがもどかしいが、映画館という場が消失したとき、映画そのものも同時に力を失うと私は思っていて、数多くの観客がひとつの場所に集まって同じスクリーンを眺める、という行為のなかに映画の本質がある。なぜかといわれると言語化するのが難しいが、映画館の価値が消失したとき、映画そのものも無効化するというのが私の見立てだ。映画はパブリックなものだからこそ価値があって、その公共性を担保しているのが映画館だ、とでもいうか……。

私は当初、映画というジャンルを無効化する可能性があるのはビデオゲームではないかと思っていた。ただ受動的に画面を眺めるだけの行為より、コントローラーを握って能動的に関与する方が楽しいとなれば、映画はゲームに取って代わられるだろうと思ったのだが、そうではないかもしれない。世間の人びとはそこまで能動的に何かをしたいとは思っていないようで、今後も映画とゲームは共存できるような気がしてきたのである。一方、配信に対して私が脅威を感じているのは、「2時間」という映画のスタンダードが崩されていること、映画館という場を無意味にする可能性があることだ。私も配信の利便性を享受しているが、この圧倒的な手軽さは映画館という場(=映画の本質に関わる場所)にどのような影響を与えるか、よくわかっていない。

映画館は存続しうるか

配信が映画を無意味にする可能性はあるだろうか。配信で映像を見るようになる前から、ドラマ作品はあった。それらは映画と共存できていた。しかし過去のドラマ作品は、レンタルビデオ店へ行くなり、ソフトを買うなりする一定の手間がともなっていた。そうした手間がなくなった配信は、映画館の存在を無効化するような力を持ち始めていると思う。私は、映画は「2時間ですべてを語り切る」ところに意味があると思っていて、情報量の少なさ、主人公がその後どのような人生を生きていくのかは想像するしかない、という部分も含めて、映画の本質的な「語り足りなさ」を重要視している。同時に、配信が広く普及したことで、観客が求める物語のボリュームや時間感覚に変化が生じたという印象もある。

1話30分、1シーズン10話、それを10シーズン分、時間をかけて見るのがスタンダードとなった場合、120分の映画は「(それひとつを通して見るには)長いし、(トータルの物語として楽しむには)短い」という、とても中途半端な表現形態になってしまうような気がする。配信によって、映像作品に対する観客の時間感覚が変容してしまう点が大きいことを危惧しているのだ。くわえて、手元のスマホですぐに見れるのに、わざわざ映画館へ出かけて、2時間という微妙な時間を費やすのは面倒だとなれば、私が当初掲げた「映画の2条件」はすぐに失われるし、映画は衰退してしまうような気がする。つまりは「2時間ですべてを語り切ること」の強さ、「映画館というパブリックな場で多くの人と共有する」魅力が、配信の利便性を超える必要があるのだが、それはいかにして可能なのか、私にはよくわからない。ただひとつ、ユニバース的な物語性から脱却しなければ映画に勝機はない、ということだけは言えるような気がしている。

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