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ジェニー・オデル『何もしない』(早川書房)

どうすれば「何もしない」でいられるか

"HOW TO DO NOT何もしない方法HING" と名づけられた本書を読んでいくと、確かにいま「何もしない」ことは本当にむずかしいと痛感させられる。人びとの生活の中に「まったく空白の時間」がほとんど存在しなくなっているのだ。われわれはいつも何かをしている。多くの人が移動中ずっと携帯電話を眺めているし、どんなときでも連絡が取れる状態になっている。SNSからは情報が洪水のように押し寄せてきて、誰もが通知欄を気にしながら生活しており、つねに注意散漫な状態である。外を歩くときも音楽を聴いているし、風呂に入っているときですらYouTubeを見ている。真っ白な時間がないのである。使用者を依存的にさせるプラットフォームのデザインが原因で、情報の摂取が止められないのだ。著者はこのような社会、人びとの集中力Attentionを奪うことで利益を得る仕組みを「注意経済」Attention Economyと呼んで警戒し、「何もしない」ことで抵抗せよと主張する。注意経済に危機感を持っているのは私も同じで、なるべく携帯電話を持ち歩かないようにしたりと工夫していたが、まだ「何もしない」という域には到達できていない。いったいどうすれば「豊かな無為」を取り戻せるのか。

有意義に暮らすためには、押し寄せる大量の情報から身を引いて、別のものと関わる時間が必要だ。個々にとって本当に大切なものごとに集中するため、いかに注意経済から離脱していくか? それが『何もしない』を通じて著者が目指すゴールである。扇情的な見出しのニュースがSNSを通じて入ってくるとき、ユーザーは、それをクリックしないという判断、いちいち反応せずシェアしないという姿勢を取ることがむずかしい。注意が根こそぎ奪われてしまうのだ。生きていく上で考えなくてはならないことはもっとたくさんあるはずなのに、あの腹立たしい注意経済の思惑通りに、愚にもつかない旬の話題に飛びついてしまう(その「旬」もまた、数時間から半日、長くて2日程度なのだが)。こうしてユーザーの貴重な時間と引き換えに利益を得るのは、注意経済の側なのである。本当にこれでいいのか。著者は「言うべきことがないというよろこび」「何も言わずにすませる権利」をふたたび確保しなくてはならないと喝破する。

「何もしない」の先輩たち

著者は、これまでの歴史において「何もしない」状態とはいかなるものであったか、社会に対する異議申し立てはどのように行われてきたか、さまざまな例を挙げながら検討する。広く歴史を俯瞰し、あらゆる場所からヒントをたぐりよせる彼女の手つきには、レベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』(左右社)や、デヴィッド・グレーバー『負債論』(以文社)といったテキストとの共通点を感じ、胸が高鳴った。四世紀の哲学者ディオゲネス、バード・ウォッチング、メルヴィル『代書人バートルビー』、60年代コミューン、現代美術アーティスト謝徳慶(彼はずっと檻の中に入っていっさい外に出ず、読むことも書くことも禁じた上で、1年間まったく「何もしない」時間をすごすアート・パフォーマンスを行った)、ヴァルター・ベンヤミン、ジョン・ケージ(4分33秒のあいだ何も演奏しないという楽曲)──。いかに「何もしない」でいられるか、果敢に挑戦した先人がいたのだという事実に目が覚めると同時に、かかる刺激的な見立てを提示した著者のアイデアに奮い立つような気持ちになる。「何もしない」ことの先輩がおり、彼らは「どうすれば、何もしないでいられるか」に途方もない労力を注ぎ込んだのだ。感服あるのみ。私も「何もしない」人間になりたいと心から思った。

私たちはいかに多くの時間と労力を、コンテクストが崩壊した大衆に気に入られる発言をひねり出すのに──そしていうまでもなく、その大衆の反応を確認することに──費やしているのだろうか。(…)それをすると私はみじめな気持ちになるだけでなく、時間の浪費にしか思えない。その努力を、適切なことを適切な人たち(もしくは個人)に向けて、適切なタイミングで言うことをに使ったらどうだろうか。虚空に向かって叫び、戻ってきた叫びにもみくちゃにされる時間は減らして、自分の言葉を聞いてもらいたい人たちに部屋のなかで語りかけることに時間を使ったらどうだろうか。

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きっと出てくるであろう意見、すなわち「ではSNSを止めればいいではないか」「それほど注意経済が嫌いなら、Wi-Fiの電波が届かない山奥で暮らせばいい」は実に正しい。しかし、いまSNSを止められるのは限られた人のみだと著者は述べる。仕事上SNSがなければ成立しない人は多いし、人間関係を保つために欠かせない場合もある。SNSを止められる余裕がある人は思いのほか少ないのだ。ここで著者が主張するのは、「その場にいながら」抵抗することである。それは何も「週末のデジタル・デトックス」といった対処療法ではなく、より根源的に注意経済を拒絶する方法があるはずで、われわれはその場にいながら何もせずにいられると著者は解くのだ。メルヴィルの有名な短編小説『代書人バートルビー』を思い出してみてほしい。ただひたすらに「しない方がいいのI would prefer not toです」と言い続けながら、決してその場を去ろうとしなかったバートルビーのごとき頑迷さで、その場に居座ることはできないだろうか。これが著者からの挑戦的な提案だ。こうした記述には興奮をおさえきれない。

世界は本当に変えられる(と信じる)

この本を読んで自分を恥ずかしく感じたのは、ここ最近私がスマートウォッチで睡眠の記録を取っていたことだ。腕に装着して眠ると、自動的に入眠時間と起床時間が記録され、何時間眠ったか、深い眠りと浅い眠りの比率はどうか、今週の平均睡眠時間はどの程度か、すべてが情報として蓄積されていく。当初これは実に便利だと思ったのだが、冷静に考えれば、なぜ私は寝るときですら何かをしようとしているのかと情けない気持ちになった。眠りを数値化し、分析し、評価・改善を試みるような意識の高い人間。その作業は本当に要るのか。「なるべく早めに寝る」ではどうしてだめなのか? 思うに私は、そしておそらく世間の多くの人びとは、寝ているときですら何もしないではいられないのだ。睡眠中でさえ、身体からスマートウォッチに情報を送り続け、睡眠の質を改善する工夫を欠かさない。なぜ1秒1秒を数値化し、可視化しようとするのか。人間、寝るときはただ寝る、それで何が足りないのか。スマートウォッチを買ってからの私は、意味なく「今日は何歩あるいたか」「現在の心拍数はいくつか」を何度も確認している。ここでも私の注意は散漫になっているのだ。まずは「何もしない」ことを自分に課さなくてはならない。

私が『何もしない』にどうしようもなく惹かれるのは、なにより著者の溌剌とした姿勢である。理想主義的で、ナイーブで、世界を本当に変えることができると信じる者だけが書けるテキストが『何もしない』である。まるで『舞踏会へ向かう三人の農夫』(河出文庫)を書き上げた若きリチャード・パワーズのような、掛け値なしのオプティミズムが全編にみなぎっている。そのような本を読んでしまった後で、私自身が変化しないことはむずかしい。よりよき人生を送るには何が必要か。どうすれば、本当の意味で「自分の人生をじゅうぶん生き切った」と思えるのか。そんなまっとうなメッセージを臆することなく発する、著者の思い切りのよさに惹かれた。そう、私もどうにかしてあらがいたいのである、この手ごわい注意経済に。

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