お前も今日から大衆だ
福島県出身の私は、地方の風土や文化にまったく馴染めず、小さな頃から妙な人間扱いをされ続け、学校でも浮いて浮いて浮き倒して、ほとんど逃げるようにして東京へやってきた。あれはつらい体験だった。何度クラス変えをしても、福島のどこへ行っても周囲と調子をあわせられず、ちゃんと確実に、アフリカ・バンバータ言うところの Sure Shot で浮いてしまう。ここまでひどいとなると、何か心の病気ではないかと思っていたし、誰か早く石ころ帽子を発明してくれないだろうかとまじめに考えていた。なぜあれほどになじめなかったのか、いまだに理由がわからず、人生最初の18年間は深いトラウマとなって私のなかに残っている。
つい先日、初めて「お前も今日から大衆だ」という曲を聴いた。これは1993年に A.K.I. Productions がリリースしたラップで、私はその存在をまったく知らなかった。不勉強申し訳ない。ほぼ30年前の曲である。聴き終えた私は、その歌詞の鋭さにううむと唸っていた。すばらしい内容であった。かつて福島県で植えつけられた深いトラウマをえぐってくるような、そんな言葉の羅列である。まずは歌詞を読んでみてほしい。サブスクで曲を聴くこともできるので、可能であればそちらも聴いてほしいと思う。
ひいっと声を上げながら聴いた。こんなに怖い曲をあまり知らない。「分かったら町内会に入れ」以上に威力のある脅迫の言葉を聴いたことがないと思った。福島のトラウマがありありとよみがえってくるようだ。そしてこの歌詞を書いたA.K.I.はおそらく、「ひっそりと暮らす生活者」の指摘に反発しながら、同時にどこかで納得し、一部では同意しているようにも感じられる。そこが大きなポイントなのだと私は思う。では「お前も今日から大衆だ」で表現された反発とは何か。ここでは、実際には「生活感を笑う」つもりも、「地道な者を馬鹿にする」意図もないとしても、相手からはそう見えてしまっていることが重要なのだ。この曲のリリースから約30年経ち、まだ経済的にも文化的にも余裕があった90年代前半から比較して、現在の社会は途方もなく逼迫している。みな生活が苦しいのは一緒で、他人のことを「貧乏くさい」などと揶揄するような段階にはない。それでも、「気取りがある」(ように見える)層に対する心理的な反発は根強いと感じる。
「お前も今日から大衆だ」と同じようなことを、トランプ支持者のルポルタージュを読んだときにも感じた。日本の保守政党が強い理由も、もしかしたらそれに近いのかもしれない。こうした反発を意図的に煽り、うまく集票に結びつけている政党もあると思う。実際のリベラルが、地道な者の暮らしを大事に守りたいと思っていたとしても、結局は増税で生活を圧迫する保守政党の方が支持されてしまう、ねじれのような事態が起こるのは、「お前にはいつも気取りがある」という心理的な反発のせいではないか。「見下した目つきで俺を見る」ような相手を信頼できるはずもない。この壁を越えられるだろうか。いつか町内会に入れるのか。私は、かつてあれほど疎外され、爪はじきにされた忌まわしき文化圏と融合できるか。この曲の歌詞には、理詰めではどうしようもない「分断」の正体の一部が示されているような気がして、だからこそ私は恐怖するのだ。
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