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ぜんぶ、克也のせい(5)

はじめての浮気

私はしだいに克也との関係に冷め、ひそかに浮気を始めていた。中学時代、あれほど入れ込んだ「ベストヒットUSA」だったが、高校入学後に知った雑誌「ロッキング・オン」の理屈っぽさ、ハッタリの強さに衝撃を受け、すっかり影響されてしまったのである。大好きだったヒットチャート楽曲に、軽蔑的な態度すら見せるようになった私。それまで読んでいたグラビア中心の洋楽誌「ポップ・ギア」の購読も取り止めた(いま考えれば「ポップ・ギア」も楽しい雑誌だったと思う。買い続ければよかった)。これまでの習慣から「ベストヒットUSA」だけはチェックしつつも、克也とは精神的に少し距離を置くようになり、「ロッキング・オン」信徒としての活動を始めた。これが正しい選択だったのかは、いまだによくわからない。

こうなると、がぜん興味はアメリカからイギリスにうつっていく。カッコいい音楽はアメリカにあると信じて疑わなかったかつての私だが、イギリスの音楽はより通好みでダーク、聴いているとより特別な感じがする。思えば中学時代から、リック・アストリーやティファニーなど、いい曲だなと思いつつも、いくぶん軽薄がすぎる感じがしていたのだ。一方、イギリスのニューウェイブ、こっちはもう完璧にホンモノのたたずまいである。

ザ・スミスとの出会い

わけても、ザ・スミスを聴き始めたのは決定打だった。「ベストヒットUSA」的な明朗快活さの対極にある表現を目の当たりにして、15歳の私はすっかり参ってしまった。理由は不明だがポケットに花をさして、クネクネとダンスをする男がボーカルである。こんな音楽を聴いていたら、親に怒られるのではないか。ボーカルの男は軟弱のきわみみたいな風体であり、仮に引っ越しを手伝ってもらっても「重い」だの「疲れた」だのと言うばかりの、まるで役に立たないタイプにしか見えない。このような者がレコードを出したり、ショービジネスの世界で成功しているのが驚きだった。これで人前に出ていいんだという驚きがあり、価値観が大きく揺らいだ。

「ベストヒットUSA」にうつつを抜かしていた自分を恥ずかしく思うようになった私は、「ロッキング・オン」をほんの数ヶ月購入しただけにもかかわらず、幼稚園の頃からパンク聴いてますみたいな顔をしながら道を歩くようになっていた。周囲にイギリスの音楽を聴いている人がいない、というのも、自分だけが特別な文化に触れているという優越感につながった。あれほどに憧れた克也を黒歴史化してしまった過去には後悔しているが、当時はイギリスの音楽に夢中で、他には何も考えられなかったのである。

よその国から来たレコード

歌詞カードを本格的に読み込むようになったのも高校に入ってからだった。値段の安い輸入盤を買うようになると、歌詞の日本語訳がついておらず、知りたければ自分で調べる必要があるのだ。試してみると、歌詞を見ながら辞書を引く作業は思いのほか楽しかった。それだけでオトナになったような気がしたものだった。輸入盤ならではの「よその国から来たレコード」という舶来の雰囲気にもシビれたし、海外から送られてきた暗号を自力で読み取っているスリルもたまらなかった。

輸入盤のレコードスリーブに書かれた歌詞を調べていくと、意味がわかった瞬間に啓示を受けたかのような感覚を味わうことがある。ザ・スミス初期の曲 'This Charming Man' (1983)の一節 'I would go out tonight, but I haven't got a stitch to wear' (今夜出かけたいけど、着ていく服がない)は、何度聴いても最高だった。この短いひとことに、高校時代の私が感じていた不安がすべて凝縮されているような気がした。本当に服がないのか、出かけないための言い訳なのか、よくわからないのもいい。たぶん両方なんじゃないかと私は思った。この男は着ていく服がないけれど、そのことに少し安心してもいる。

さようならザ・スミス

'The Headmaster Ritual' (1985)の歌詞もよく覚えている。これはイギリスの厳しい学校制度について歌った曲で、私はのちに、映画『If もしも....』(1968)などを通じてその実情を知ることになるが、何も知らなかった当時の私でも、レコードスリーブを眺めるうちに「ああ、これは教師の悪口ソングなのだな」と推測できた。悪辣な暴力教師の姿を、1番で 'Same old suit since 1962' (1962年から着ている古いスーツ)と描写しておいて、2番で 'Same old joke since 1902' (1902年から言っている古いジョーク)とオトす構成が実にいい。何より、弱々しい声で 'I wanna go home, I don't want to stay' (家に帰りたい、ここにいたくない)と言ったあと、なぜかヨーデルみたいな声で「ハララ ラリラ ライエー」と歌うのがダサくてよかった。

ザ・スミスに影響を受けた私は、ボーカルの男を真似て、だらしないテロテロしたシャツを着て歩きまわり、彼がインタビューで「好きだ」と言っていたオスカー・ワイルドの本を読んだり、エレキギターを買ってザ・スミスの曲を演奏してみたりと、ファンボーイを満喫していた。準備は整った。もう福島県にはいられない。卒業したら東京へ行こう。そして彼らの来日コンサートを見よう。そう思っていたある日、深夜テレビに出てきた今野雄二氏の洋楽情報コーナーで、ザ・スミスの解散を知った。1987年であった。もう彼らのコンサートを見ることは叶わない。さようならザ・スミス。しかし、東京へ出るという目標だけは揺るがなかった。私はもうすぐ東京へ行くのだ。

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