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『アネット』と、見えにくい暴力性

9年ぶりの新作

レオス・カラックス9年ぶりの新作は、初の英語作品にしてミュージカル。ジャック・ドゥミ式の、全編ミュージカル(通常の会話がない)という手法を取っています。主演はアダム・ドライバー。これまでのレオス・カラックスとは違ったテイストでしたが、挑戦的な映画を見ているという緊張感が味わえました。こうして「しっかり見なければ」という気持ちにさせてくれる映画作家は数少ないものです。

スタンダップコメディで人気絶頂のコメディアン、ヘンリー(アダム・ドライバー)は、オペラ歌手のアン(マリオン・コティヤール)と恋人同士。メディアでもニュースになり、世間の注目を浴びるビッグカップルです。彼らは結婚し、アネットという女の子が生まれます。絶好調に見えたふたりでしたが、やがてヘンリーはコメディアンとして失速してしまいます。一方アンはオペラ歌手としてさらなる高みへ登っていき、両者の立場は離れていくのでした。

粗野な性格

劇中もっとも印象的なのは、ヘンリーという男性の粗野な性格です。とはいえ、わかりやすく暴力を振るったり、罵倒するわけではない。たとえばスタンダップのステージ上で、マイクのコードを持って投げ縄のようにマイクを振り回すくだりがそうなのですが、一見「そのような演出なのかな」と思えなくもない。しかし、ステージの床にマイクがぶつかって音を立てる瞬間には、嫌な感じの暴力性が生じます。赤ん坊を抱いてあやすシーンでタバコを吸い続けるのも妙な印象で、火を消せばいいのにと思うのですが執拗に吸い続けます。かと思えば煙を吐く時、赤ん坊に煙がかからないように気をつけるそぶりを見せたりと、いまひとつ彼の性格がつかみにくい。

そのきわめつけが、妻に対して行う「足のくすぐり」です。くすぐっちゃうぞ、とじゃれあっている場面に見えなくもないのですが、ヘンリーの足くすぐりは観客の嫌悪感をかきたてるのです。足をくすぐられる側のアンには、「やめてほしい」という拒否感が確実にあるものの、表面上は夫が妻の足をくすぐる、というにこやかな遊びにも見えるため、うまく拒絶できず、アンは笑いながらその遊びにつきあってしまいます。拒否すれば、冗談の通じない人、ノリが悪い人のようでもあり、夫婦間のコミュニケーションを拒否しているかのような罪悪感も生まれてしまいそうです。これは「船上のダンス」も同様ですが、ヘンリーが妻に対して加える暴力は、どこか陽気でおどけた装いでなされる傾向があるため、被害者のアンは混乱してしまい、夫の行為に対してまず「これは何なのか」を考えなくてはなりません。やや行きすぎた愛情表現なのか、暴力なのか。アンはそうした判断がうまくつかないまま、ヘンリーの暴力性に巻き込まれていきます。

暴力のかたち

 
個人的にもこうした「悪ふざけや愛情表現と見分けのつかない暴力性」には忌まわしい記憶があり、学生時代、プロレスごっこや腕ずもうなどといった男性同士の「じゃれ合い」が怖くて仕方なかったものです。かかる「じゃれ合い」は拒否するのが難しくて、相手側の真意をくみ取りにくい。やられている側は本当に痛いのですが、「じゃれ合い」という名の恐怖に耐えなくてはならず、真剣に拒否すると「シャレのわからない奴」になってしまう。アンもまたこうした「悪ふざけや愛情表現と見分けのつかない暴力性」に巻き込まれてしまったように思えるのです。また娘のアネットに対する仕打ちは、娘の搾取であると同時に、言いようによっては「子どもの才能を伸ばす」という大義名分を(強引にではありますが)こじつけることも一応可能であって、ヘンリーの暴力性はさらに不透明になっていきます。

おそらく世の中にある暴力性の多くは、このように、はっきりとした暴力なのか、許容すべき範囲なのかの見きわめが難しいものなのではないでしょうか。仮に非難されたとしても「冗談の通じない奴だな」とごまかせるような、逃げ道のついた暴力。こうした男性の暴力性は非常に現代的なテーマですが、レオス・カラックスがこのテーマを取り上げて時代に寄せてくるのは意外であり、なるほどという納得感を覚えました。男性の加害性が、わかりやすいドメスティックバイオレンスや激しい罵倒といった方法ではなく、どこか芝居じみた、冗談のようなしかたで行われ、結果的に人を支配していく、という過程が本作の特徴であると感じました。

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