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『My Memory of Us ~ちいさなオリーブの花たち~』(Switch / PS4)

ビデオゲームで追体験するホロコースト

ポーランドのインディーゲーム会社 Crunching Coalas / IMGN PRO が制作したビデオゲーム『My Memory of Us ~ちいさなオリーブの花たち~』(2021年3月25日発売)をプレイした。ゲームのキービジュアルとなるのは、白黒の画面に、赤いコートを着た少女のショット。映画ファンであれば、これが『シンドラーのリスト』(1993)からのイメージ借用であるとただちに気がつくはずである。本作でテーマとなるのは、ユダヤ人迫害とホロコーストの時代だ。こうした題材がビデオゲームになることに驚いたが、子どもでもプレイできるよう、具体的な土地や時代をあえて設定せず、ナチスをロボット兵に置き換え、SF風のガジェットを導入するなど、メタファーとしてのホロコーストを描写するさまざまな工夫が見られる。非常に志が高く、教育的でありながら娯楽としても楽しめる、まさしくエデュテイトメント(Education + Entertainment)と呼ぶべき作品だと感じた。Switch と PS4 で日本語版がプレイできる。なお、このすぐ下のスチル写真は『シンドラーのリスト』からのショット。

プレイヤーは、少年と少女の両方を切り替えながら操作していく。少年は身体が小さく、走るのも遅いが、敵から隠れるのがうまい。少女は走るのが早く、パチンコを打ったり、重いものを持ったりと身体能力が高い。状況によって、どちらの能力が必要になるかは異なる。このふたりが助け合いながら危機を脱し、ホロコースト下のポーランド(によく似た架空の土地)を生き延びていくというのがゲームの基本となる。まずなにより胸を打たれるのは、手をつなぐ(△ボタン)という動作だ。移動する前に、ボタンを押してふたりが手をつなぐ必要がある。こうした設定は『ICO』(2001)を連想させるが、△ボタンを繰りかえし押すたび、両者のつながりが深まっていくように感じるのも、また『ICO』によく似ている。

暗喩としてのユダヤ人迫害

本作に、あからさまな死や暴力は登場しない。しかし、ユダヤ人(ゲーム内では、直接ユダヤ人とは呼ばれず、赤い人びと = red folk と置き換えられる)がいかに追い詰められ、社会で居場所を失っていくかの過程が秀逸なメタファーで表現される。赤い人びとはロボット兵に小突かれ、商店や飲食店への出入りを禁止され、ゲットーへ追いやられる。このゲームをプレイする子どもはきっと「なぜ、世の中がこのようになってしまったの?」という問いを立てるはずであり、その問いこそが非常に重要なのである。ゲーム内で、赤い人びとである少女と、赤い人びとではない少年では行動範囲も異なる。少女は立ち入りできない場所でも、少年であれば通れるといった設定がゲームに生かされ、少年が単独行動で必要なアイテムを手に入れる場面も準備される。単独のミッションが終われば、また△ボタンを押して少女と手をつなぎ、共に次の場所へと移動する。立ち止まっていては命が危険なのだ。

ゲットーに押し込められる赤い人びと。彼らはやがて、空飛ぶ列車に乗って収容所へと送られる。ロボット兵(SSを模している)の威圧感や、銃をつきつけられて両手を挙げる赤い人びとの姿。ゲットーの荒んだ風景、行き場のない子どもたち。このようなイメージがゲームで体験できることが驚きで、シーンが変わるたびに画面に目が釘付けになってしまう。イメージの引用が的確で、どれも本や映画で見たことのある映像であり、歴史的な背景を感じさせる細部がすばらしい。ナチス風の制服や紋章、チクロンBを連想させるガス缶や大量に廃棄されたスーツケース。こうした重いテーマを持つゲームが、他ならぬポーランドで制作された経緯に深く納得するゆえんである。わけても、もっとも象徴的だと感じたシーンは、ロボット兵にとらえられた少女がベルトコンベアに乗せられる場面だ。この展開でプレイヤーが感じる恐怖はただならぬものがある。そして、このショットこそが、絶滅収容所、ホロコーストの本質そのものであるように思う。

ベルトコンベアとは何か

絶滅収容所の内部に、実際にベルトコンベアが装備されていたわけではない。しかし、ホロコースト研究家ラウル・ヒルバーグが『ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅』(柏書房)で指摘した通り、ホロコーストのきわだった異様さとは「人間をベルトコンベア式に殺害する」という着眼点にあったのだ。特定の人種を短期間に大量殺害する方法を論理的につきつめた結果、殺戮処理のための工場を建て、ベルトコンベア式に殺害するのがもっとも効率的であるという結論にたどり着いたこと、絶滅収容所の最大の衝撃とはその震撼すべき「効率性の追求」の徹底にあった。そしてベルトコンベアという道具は、その時代にはまだ使用されていないにもかかわらず、ナチズムの思想を示す暗喩としてもっとも的確なのである。ベルトコンベアに乗せられることで生じる非人間化、その怖ろしさを直感してもらうことが何より必要で、『My Memory of Us』にはそのきっかけがある。ゲームをプレイする子どもが「女の子がベルトコンベアで運ばれている、人間なのに」と感じることが重要なのだ。

また特筆すべきは、各チャプターの冒頭で語られるナレーションである。物語は、老人となった男性が「かつて子どもだった私は、このような危機をくぐり抜けた……」と過去の記憶を語る形式で進んでいくのだが、このチャプター前の語りが実にすばらしく、映画を見ているようだった。声優の方もみごとであり、情感の込められた語りにひき込まれてしまう。ホロコーストを物語化することはできないが、われわれは物語を通じてしか歴史を知り得ない。『My Memory of Us』の驚くべき語りの豊かさは、ホロコーストを知るための入口になってくれるだろう。

ぜひプレイしてほしい作品

こうしたゲームが企画され、発売されることを嬉しく思うし、教条的にならず、ゲームとしての楽しみと両立させる試みになっている点もすばらしい。脱出のためゲーム内に準備されたチャレンジ要素も多岐に渡り、謎とき、アクション、パズル、迷路、リズムゲームやバイクレースなどが次々に現れる。どれもうまくストーリーと融合しており楽しめた(いくつかは難易度が高く、何度か攻略サイトを見てしまったが)。物語全体が「過去の回想」として組み立てられている点も、ゲームの完成度を上げているように感じたが、それは製作者がストーリー性を重視した結果であると思う。

最終的なエンディングでは、×ボタンを2回押すことが非常に大きな意味を持つアクションとなる。具体的な内容は明かさないが、この場面では正直、感動で胸がつまってしまった。あとは自分のタイミングで×ボタンを押すだけという最後のシーン、そのあまりに美しい終幕に「これまで、このように優しい気持ちで×ボタンを押したことがあっただろうか」と胸がいっぱいになってしまう。ゲームが表現できる領域が大きく広がっていると感じた作品だった。

※PS4版でのプレイとなるため、ボタン表記もPSコントローラのものになっています。

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