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映画についての映画──『エンパイア・オブ・ライト』『バビロン』『フェイブルマンズ』について

映画を題材にした映画

「映画を題材にした映画」が、そこまで好きではない。どこか自己言及的で、ナルシスティックな感じがするからだ。もちろん、いくつか好きな作品はあるが、映画というメディアを通して「映画っていいよね」とメッセージを伝えられても、「そりゃアンタは映画業界の人なんだから、映画はいいと思うに決まってるじゃない」と感じることが多い気がする。むろん例外はあり、たとえばゴダールの『軽蔑』(1963)は傑作だと思うが、あの人が撮っていた作品は、すべてが「映画を題材にした映画」であって、『軽蔑』はたまたま映画業界を描いただけにすぎない。映画監督が映画を語るときは、いかにして「映画」との適切な距離を取るかが重要であるように思う。対象としての「映画」に近づきすぎてはいけないような気がするのだ。

ここ最近、「映画についての映画」をまとめて見たので、今回はその感想。似たようなテーマの作品が同じタイミングで公開となっている。サム・メンデス、デイミアン・チャゼル、スティーブン・スピルバーグと、名の知られた監督が続けて「映画を題材にした映画」を作ったのだ。理由はわからないが、ただの偶然だろうか。それぞれの感想を書いてみようと思う。

『エンパイア・オブ・ライト』

先ほど述べた「映画との距離感」という意味で、3本のなかでもっとも節度があって好みだったのは、サム・メンデス監督の『エンパイア・オブ・ライト』であった。映画そのものではなく、「映画館」を舞台にしたドラマになっていたのも好印象。舞台は1981年のイギリス。主人公は、映画館に勤務する中年女性。いっけん黙々と、映画館施設での清掃や接客などの仕事をこなしていくかのように見える主人公は、ときおり病院で医師と面談したり、よくわからない理由で同僚を叱ったりと、複雑な事情や精神的な疲労が見え隠れする。映画館の支配人である男性との関係性も妙だ。同じ映画館で、新入りとして働き始めた黒人青年と出会ったことから、主人公の過去が見えてくる……というあらすじである。

何より、主人公女性が映画を好きではないという設定がいい。彼女は人生で苦しい経験を多く重ねており、これまで映画を楽しむような余裕を持てなかったのだ。ここにサム・メンデスの節度がある。たしかに、映画などどうでもいいと思っている人はたくさんいるし、なくたって生きていける。たとえ映画館で働いていたとしても、映画に興味を持てない人はいるのだ。それは当たり前のことで、ある種の人にとって人生は途方もなく苦しいのであり、そこをすっとばして「映画ってステキだよね」と言われても、なかなか同意しにくい。苦しい生き方をしてきた主人公が、最後にようやく「映画を見よう」という気持ちを抱くところで物語が終わるのが、「映画との距離感」として理想的だった。人生ってままらなない、とサム・メンデスは映画を通して語る。そのままならなさが、映画館で働く女性の姿と重なって、とても美しい映画だと感動してしまった。黒人青年のまっすぐさ、怒りの感情もすばらしかった。

『バビロン』

見ながら腹が立って、劇場を途中で出てしまった。まったく好きになれない映画だった。3時間超の作品で、2時間あたりまではがまんしたのだが、そこで耐えられなくなって、家に帰って寝た。こういう映画を撮ってはいけないと私は思う。本作の何がよくないといって、監督が「本当はあまり興味のないもの」ばかりを撮っているところである。たとえば映画は冒頭、トラックに載せて運搬中の象が排泄物を吹き出し、主人公がその排泄物を浴びながらも必死で象を運ぶ、という場面から始まる。ここで私が疑問なのは、チャゼルは本当に「象の排泄物を描きたい」と思っていたのかである。私から見ると、チャゼルは「象の排泄物を浴びる主人公」にあまり興味がないにもかかわらず、「自分はこんなシーンだって撮れるのだ」と証明したいがために、象の排泄シーンを作品冒頭に持ってきたようにしか思えないのだ。象の排泄物を撮ることじたいはいいのだが、それならば監督には「象が盛大に排泄する場面を撮りたい」「象の排泄は真のスペクタクルだ」という強い意志を持って撮ってほしいのである。チャゼルは象に興味がなく、排泄をカメラに収めたいという欲望がないことがあきらかなので、シーンとしておもしろくない。「このショットを何としても撮りたい!」という欲求がない人が撮ってるんだから、心に残るはずがないのだ。

その後も、猥雑な描写は続く。嘔吐、排泄、裸、性行為、薬物、酩酊。私が思うに、チャゼルはきっと、これらのどれにもあまり関心がない。劇中、マーゴット・ロビーが盛大に吐瀉する場面を見ながら、私は彼女が気の毒でしかたなかった。チャゼルはマーゴット・ロビーを被写体として、俳優として愛していないように見えたのである。正直なところ、俳優陣に過酷な撮影をさせた上で「自分には有名俳優を使って、こんな過激な作品を平然と撮ってしまう図太さがあるぞ」という振り幅をアピールしたいだけにしか感じられなかった。結果的に『バビロン』は、成功した監督が一度だけ可能な、豪奢なポトラッチ映画という印象である。私は、監督が俳優に愛情を抱いていない作品が好きではなく、演者に対して残酷な仕打ちを続ける『バビロン』を最後まで見通す気になれなかった。サイレントからトーキーへの移行時期が描かれ、映画史上最初のトーキー作品である『ジャズ・シンガー』(1927)への言及もあったが、そうした映画史への目配せもわりとどうでもいいと思ってしまう、とっちらかった内容だった。最後の1時間を見ていないので、そこで奇跡が起きた可能性は少しだけ残っている。

『フェイブルマンズ』

さて「映画との距離感」という点では、なかなか難しいのが『フェイブルマンズ』である。この映画の主人公がスピルバーグ本人であることは疑いようがなく、圧倒的な成功をおさめた本人から「こうして私は世界的名監督になったのだよ」と言われると、ちょっとしらけてしまいそうな心配をしていた。しかし作品は、映画を撮るという行為に魅了された人物を通じて、何らかの表現を続けていくことの楽しさ、難しさ、周囲との軋轢といったテーマを描いていたのが魅力的だった。『史上最大のショウ』(1952)の列車衝突シーンがモチーフとなり、「表現の種」が主人公に植えつけられる過程が描かれるのがおもしろい。

本作は多分に自己言及的なフィルムでもある。高校時代の友人が泣き出す場面に遭遇した主人公が「君が泣いたことは絶対誰にも言わない。もし将来、僕が高校時代の経験を映画化することがあっても、君が泣いた場面は使わない」と約束するシーンなど、その自己言及性、メタ性がきわだつ。それで言えば、ラストシーンでとある映画監督から言われたひとことと、その言葉を受けた次のショットなども実にメタ的な表現になっているが、やはり「映画にまつわる映画」というテーマそのものが、自己言及=メタ性につながってしまうのだろうと思う。一方、映画にまつわる物語でありつつ、ユダヤ人家族の関係性が中心であり、ポール・ダノとミシェル・ウィリアムズ演じる夫婦の困難を描く点もよかった。キャンプ地で8mmを回していた主人公が、フィルムにたまたま映ったシーンから夫婦の危機を察知してしまう、という流れなど、「カメラは何が映るのかを制御できない」という映画の本質を示していて、スピルバーグらしさを感じたのだった。

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