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『バッドガイズ』と、何者かのふりをすること

善人のふりをしよう

心の底からいい人であることと、表面的にいい人のふりをするのでは、何が違うのだろうか。内面の意志と外側の行動、どちらが本物の自分自身なのか。考えてみると、意外に難しい問題である。日々善行のみを重ね、全く法律を破らない極悪人がいたとして、彼は何者だと考えられるか。『バッドガイズ』は、動物が主人公の子ども向けアニメでありながら、「自分自身とは『内面にある意志』なのか、『他者に向けられた行動』なのか」という複雑な問題を扱った、秀逸なアニメ作品だ。何者かのふりをすること、建前としての良識や善行をジェスチャーとして行うことにはどのような意味があるか。ユニークなテーマで、思わず見入ってしまった。

強盗団「バッドガイズ」は、銀行を襲って大金をせしめ、美術品や金塊を盗んでは世間を震え上がらせる5人(匹?)組の悪党だ。自由気ままに悪事を重ねてきた彼らだが、ついに命運尽きて逮捕される。ところが、犯罪者にも更生の機会を与えようという計らいから、バッドガイズに放免のチャンスがめぐってくる。反省し、まじめな態度を見せれば、刑務所へ行かずに済むのだ。彼らは「バッドガイズ」(悪い奴ら)を一時的にやめ、「グッドガイズ」(良い人たち)になろうと相談する。しばらくはひとまず善人を装っておき、周囲を欺いたところで、うまく機会を見計らって元のバッドガイズに戻ろうという寸法だ。しかし、作戦に沿って善人のふりをしていたリーダー、ミスター・ウルフ(サム・ロックウェル)の内面に奇妙な変化が訪れ始めた──。

泣く子も黙る悪党集団

真の感情は外部からやってくる

私が本作に魅了されたのは、ふりとしての善行、ジェスチャーとしての良識を演技として行っているうちに、悪人であるよりも善人であることの方がよっぽど気分がよく、自分を幸福にしてくれると気がついてしまうというコメディ的な設定である。ミスター・ウルフは、犯罪グループのリーダーとして悪人であり続けなければいけないのだが、周囲に思いやりを持った方が楽しく生きていけると知り、悪人であることが重荷になってしまった。この展開がみごとである。身体の弱い老婦人を助けて「ありがとう」と声をかけられた瞬間、全身をかけめぐるよろこびに抗えない。「俺は悪人なのだ」という主人公の内面など意外とあてにならない、というのは、キッズアニメのテーマとして実に興味ぶかく、深みのある内容である。建前として外見上だけでも倫理的にふるまうことで、結果的には内面の変化がうながされてしまう。

つまりは「真の感情は外部からやってくる」のではないか。自分が何者であるかを知るためには、他者と触れ合ってみないことには判断がつかない。人に何かを言われて、何かを実際に経験してみて、「なるほど、これが自分というものなのか」と発見するというのはポジティブな視点だ。自分が何者かを知るためには、他人の力が要る。自己を揺り動かす真の感情は、外側からしか与えられない。また、ふりでもいいので善人のように行動することにも、大きな意味があるのだと思う。本音や露悪、口の悪さが正直さと結びついてしまいがちな今、建前として倫理的なふりをすることが、生きる上でいかにプラスになるかを再確認させてくれる。いい人のふりをし続ければ、いつかそちらの方がラクになるし、幸福でいられるようになるというのは、現実にありそうなことだ。そうしたあかるい楽観性が本作を支えており、見ていてとても気持ちのいいフィルムであった。

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