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ラルフ・エリスン『見えない人間』(白水社)

手に取るまで時間がかかった小説

思えば私は、さまざまな人から『見えない人間』をレコメンドされてきた。気になってはいたものの、長らく絶版だったこの作品をいつか読みたいと思いつつ、手に取る機会がないままだった。白水uブックスでの復刊をきっかけに、「タイトルだけは知っているが、読んでいない本」リストの上位にあった『見えない人間』をようやく読了できたのである。感無量。おそらく、多くの海外文学読者がこの小説の名前を知ったのは、スティーブン・キングの『スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編』(新潮文庫)であったと思う。主人公の少年が抱える疎外感を見抜いた学校教師が、『見えない人間』を読むよう勧める場面があったのだ。教師に本をレコメンドされ、生徒がそれを読むことが、両者の精神的な連帯のようにも感じられる。『見えない人間』という小説があると初めて知ったタイミングだった。あらすじも何もわからず、ただそのタイトルだけが記憶に残った。『スタンド・バイ・ミー』の主人公は、両親が自分を存在しないものとして扱う現状に深く傷ついていた。『見えない人間』を手に取ることで、他人にきちんと扱ってもらえない自分自身を発見する。

これは無視されることについての問題なのだ。わたしはハイ・スクールで『見えない人間』という小説の感想文を書くまで、その問題を明確に把握できなかった。ミス・ハーディーにその本の感想文を書くと約束したときは、全身に包帯を巻いた男に関するSFや、フォスター・グランツ──映画ではクロード・レインズが演じていた──の話のようなものだと思っていた。それがまったく違う内容だとわかると、わたしは本を返そうとしたが、ミス・ハーディーは許してくれようとはしなかった。読み終わったときは、本当に読んでよかったと思った。この『見えない人間』というのは、黒人のことなのだ。(『スタンド・バイ・ミー 恐怖の四季 秋冬編』)

次々にやってくるレコメンド

この小説のタイトルをふたたび目にしたのは、デンゼル・ワシントンが主演した映画『イコライザー』(2014)だった。世界文学をひたすら読み続ける小説好きの主人公が、劇中で読んでいるのが『見えない人間』であった。あっ、あの本だと思った。きっと、主人公の人物造形と小説のモチーフに、どこか重なる部分があるのだろうという気がした。BLM運動の高まりと共に黒人文学の再評価は進んでいくが、そうしたなかでも『見えない人間』はよく言及される作品のひとつであることに気づいた。読了してみてよくわかったが、この小説は驚くべき先見性を持つ作品である。キングに続いて、デンゼルにまで「読め」と言われたことになるが、私は割高な絶版書を買い求める金を惜しんでいた。実際に読むにはもう少し時間がかかる。

最後のひと押しはオバマ元大統領のレコメンドであった。文学マニアの氏がオールタイムベストとして選んだ小説のなかに『見えない人間」が含まれていたのだ。やはりきたかと思った。オバマのブックセレクションは手がたい。19世紀的な起伏に満ちた人間ドラマを愛好するオバマは、明快で伝わりやすく、満足度の高い小説を選ぶ傾向がある(注:現代の作者が書いていても、手法として19世紀の総合小説的な手法の作品は多数あり、オバマはそういった小説を好む)。彼の選ぶ本は、読めば確実におもしろい。そして私もまた、19世紀的な小説がなにより好きなオバマ型の読者だ。『見えない人間』のドラマ性と展開、人間同士のぶつかりあいもまた、いかにもオバマがよろこびそうなストーリー運びである。これでキング、デンゼル、オバマの3人に同じ本をレコメンドされたことになる。復刊というニュースを聞いて「ようやく読める」と喜んだ私であったが、タイトルを知ってから実際に作品を読むまで、かなり時間がかかってしまった。

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ようやく読んでびっくり

『見えない人間』は上下巻に分かれており、上巻では南部に住む黒人青年がニューヨークへ行き、都市の生活に苦労する様子が描かれる。貧困や疎外、仕事中のけがなど、さまざまなトラブルに苦しむ主人公だが、上巻の終わりで社会運動の組織に参加し、弁舌の才を発揮することで人生が一気に変わり始める。いっけん性格のおとなしい青年は、実は人前でスピーチをするのが非常にうまく、観衆の心をとらえて熱狂を生む稀有な才能を持っていたのだ。下巻は、この才能を生かして社会運動を拡大していく青年の活躍が描かれる。この下巻におけるストーリーの爆発、一気に物語が推進する感覚がたまらないのだ。なにしろ大興奮の展開である。やや長い作品であるため、上巻を読んでいる途中の方は「気弱な青年がひどい目にあう小説」という印象しかないかもしれないが、がまんして下巻まで読み進めてもらえれば、必ずや熱い展開が待っていると信じてほしい。

演説会場に集まった民衆を、熱いスピーチで燃えたぎらせる主人公。それまでみじめな人生を送っていた青年の圧倒的な変身である。「君、こんな特技があったのか!」と興奮することしきりだ。また下巻には、順調に組織が拡大していくかと思いきや、意外な問題が持ち上がり……という展開があるのだが、これもどこかマルコムXの生涯にも似た悲哀、アイロニーを感じさせてすばらしい。公民権運動、マルコムX、『ドゥ・ザ・ライト・シング』(1989)、オバマ大統領、そしてBLM運動。アメリカ黒人史を概観し、さらには未来を予見するような『見えない人間』の構成の妙には驚くほかない。「ブラック・カルチャーのすべてはこの本に全部書いてあるではないか」と感じたし、2021年に『見えない人間』を読む必然性、タイミングといったものにも思い至った。

持ち前の雄弁術でのし上がっていく主人公だが、この本を読んだ若きオバマ青年はどう感じていたのか、ぜひ知りたいものである。あるいは、この主人公青年にみずからの行く末を重ねたのではという気がしてならないのだ。オバマもまた政治家として弁舌の才を武器に勝ち上がり、大統領への道を歩むのであり、みずからの言葉が民衆を奮い立たせ、変化をもたらすという意味では『見えない人間』そのままの人生を歩んでいるような部分がある。オバマがオールタイムベストの作品に『見えない人間』を選んだ文脈を考えると、さらに胸を打たれる私である。

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