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ミシェル・フーコー『監獄の誕生』(新潮社)

難解なテキストではない

『監獄の誕生』を読了した。いままで長らく、難解そうだと敬遠していたが、実際には読みやすく、理解しやすい書物であった。同じような先入観を持つ方へ、まずは何よりこのことを強調したい。『監獄の誕生』はリーダビリティが高く、比較的容易に読み進められる本である。読み始めるに際して、特にこれといった前提の知識も要らないだろう。個人的には、生政治についていくつかの本を読んではいたし、何よりジョルジョ・アガンベン『ホモ・サケル』(以文社)のようなスリリングなテキストに触れていたが、そうした予備知識なく手に取ってもまず問題ない。強いていえば、第四部「監獄」は多少難易度が上がった印象があるが、一部から三部までを読み進めてきた読者であれば、フーコーの主張は理解できるはずだ。

『監獄の誕生』は四部構成となっている。①「身体刑」②「処罰」③「規律・訓練」④「監獄」。この順番も理に叶っているし、わかりやすい。何より、まず身体刑について論じるところから始まるのがその後のテーマとの比較に役立っているし、フランスの社会が身体刑を捨て、いかに規律・監視・懲罰というシステムへと移行していったのかが歴史的な経緯を含めて読み取れる。19世紀初頭まで、フランスでは罪人を身体刑に処していた。広場に観衆を集めて、罪人の腕をもぎとったり、煮えたぎる蝋を頭からかけたり、両手両足をひもで四頭の馬にくくりつけて身体を裂いたりするのだ。こうした罰がある種の祭事として行われていたのだという。犯罪者は島流し(追放)になるか、身体刑かのいずれかであって、監獄に入れるという考え方じたいが存在しなかった。犯罪者は追放するか殺すかであり、「矯正」の選択肢がなかったのである。身体刑は見世物として公開され、支配者としての君主の権力を明らかにするためのパフォーマンス、政治的な祭式として機能していた。

資本主義が求める「従順な身体」

やがて身体刑は残酷だと中止を求める声が生まれ、19世紀前半にようやく全面的に廃止になり、ここでおもむろに監獄が誕生するのだが、あるいはその変化のきっかけは、身体刑の非人道性よりもむしろ、資本主義社会の浸透が大きいのではないか。資本主義はつねに「従順な身体」を必要としているのだ。ここがフーコーの鋭い視点である。監獄が囚人を拘禁し、規律と監視で制御する矯正の手法は、資本主義が求める理想の人物を生み出すやり方でもあったのだ。資本主義は、毎日決まった時間に職場へやってきて仕事を始める身体を欲する。定められた席に座って、集中して作業できる身体。業務時間内によそ見をしたり酒を飲んだりせず、時間内にできるだけ多くの作業を完遂させられる身体。19世紀初頭の人びとには、そのような従順な身体は必ずしも備わっていなかった。社会の変化にともない「従順な身体」を作ることを資本主義社会は要請したのだが、監獄のシステムはこうした際にたいへん役に立つモデルなのである。監視し、規律を植えつけ、懲罰を与えて、手なづけやすい身体を作ること。このシステムは学校教育などにも応用されていく。すべては監獄の仕組みがベースになっているのだ。その意味では、社会全体が監獄に似た身体抑制を指向する社会になったといえる。

たしかに私自身の記憶でも、小学校(特に低学年)の教育は、生徒の身体制御を目標にしていた印象がある。教師が求めていたのは勉強そのものというより、授業が終わるまで席に座っていられる忍耐力であり、途中で席を立って歩き回ったり、床に寝転がったりしない抑制された身体の育成であった。考えてみれば行進もさんざんさせられたし、「気をつけ、休め、前ならえ」といった身体規律もいやというほど練習した。当時、何の意味があるのかまるでわからず、なぜここまで何度も行進するのかと不思議でならなかったが、あの練習には「従順な身体」を作るという目的があったのだ。しかし考えてみれば、会社で同じ席に座って8時間働くというのも、当たり前のようでいて実は意外に難しい。ある種の訓練がなければできないだろう。こうして国家が、人びとの身体を抑制することを文化や慣習のひとつとして取り入れるのは、資本主義社会にとってたいへん都合がよかった。「学校の空間を、学ぶだけのみならず監視し階層化し賞罰を加える一つの装置として機能せしめるようになった」とフーコーは書く。そのルーツは監獄なのだ。

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限りない監視

資本主義が従順な身体を作るために要請するのは、監視と懲罰である。監獄における監視の例として挙げられるのが、有名なパノプティコン(一望監視方式)だ。中央の監視塔から円形に配置された囚人の監獄。監視塔には見張りがおり、囚人を見張るとされているが、囚人から見張りの姿は見えない。また、見張りが実際に囚人を監視しているかどうかは、実はどうでもいい。囚人はつねに「見られているかもしれない」というまなざしの可能性によって、内面から規律化させられるのだから。従順な身体を作るための監視は、実に資本主義的である。フーコーは「測定され賃金が支払われる時間は同時に不純さも欠陥もない時間、その間身体が自分を働かせることに専念したままである良質の時間でなければならない」という資本主義の要請について論じる。これもまた、姿を変えて現代の社会にも影響を与えるものではないか。昨今「テレワークでPCの動作状態がモニタされ、一定時間マウスが動かなければ業務をしていないと見なされる」といった話題が出たが、労働を監視し、測定し、数値化しようという欲求は尽きることがない。われわれはつねに数値化された成果に向けて追い立てられてしまう。読んでいるうちに、学校や職場と監獄の差異が曖昧になってくる恐怖感があった。

フーコーの仕事が、時を経てさらに大きな価値を持ち、現代のわれわれを取り囲む状況に対してヒントを与えることに尊敬の念が生じるし、そのような考察がいかにして可能であったのかと驚きを禁じ得ない。本作におけるペスト禍の行動制限(外出禁止)を論じた部分など、読んでいて新鮮な驚きがあった。彼が監視や身体制御を論じるなかで、ペスト禍の行動制限について言及するべきだと考えた、その視点の鋭さに唸るほかないのである。その視点はまさに2020年以降の世界を予見してはいまいか。私は長らく、フーコーを読んでいないのにパノプティコンの例えを出すのが、『スラムダンク』(集英社)を未読のまま「あきらめたらそこで……」を引用するのと同じくらい照れくさかったのだが、これからは胸を張ってパノプティコンの話ができる。なぜなら私は『監獄の誕生』を読了したのだ。

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