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『トップガン マーヴェリック』と、真のスターとは誰のことか

なぜいま続編なのか

1986年公開の『トップガン』から36年経って発表された、まさかの続編『トップガン マーヴェリック』。この知らせを聞いた観客は当然「なぜいま『トップガン』をやり直すのか?」と疑問に思うのだが、作品を見終えたときには「なるほど、いま続編が出る意味はこれなのか」と深い納得を覚えている。痛快娯楽作にして王道エンタメ、トム・クルーズという映画俳優のキャリアをなぞるようなあらすじであり、さらには彼の追求する諸々──人間にしかできない仕事、アナログへの愛、現場主義、身体の躍動──にまつわるフィルムでもある。これが燃えずにいられようか。

『トップガン』公開当時、私は「アメリカとはこれほどに魅力的な場所なのか」と頭がくらくらするような衝撃を受けた。オレンジ色のまばゆい空。軍モノのジャケットを無造作に羽織る粋なファッション。MTVのように軽快に流れる音楽とスタイリッシュな映像の融合。見どころは多いが、わけても劇中、初めて見たビーチバレーは忘れられない。いまでこそ当たり前になったビーチバレーだが、当時はそのように洒落た競技が存在するなど思いもしなかった。健康的な若者たちが、砂浜でバレーボールに興じる姿を見た私は、「アメリカ人とはこんなに楽しそうな余暇を過ごしているのか!」と驚いたものだった。私がアメリカという国に対していまだに抱いている強い憧れの一部は、『トップガン』によって形成されていると言っていい。

でたらめなフィクション性を進んで受け入れる

冒頭、マーヴェリック(トム・クルーズ)が操縦する飛行機がスピード記録の更新を目指すというシーンから、観客は一気に引き込まれる。「マッハ10」という子どもじみた目標も楽しいし、猛スピードで離陸する飛行機の起こす突風で、建物の屋根が外れてしまう描写も冗談のようだ。マーヴェリックは当然ながらその記録を達成し、さらにはマッハ10すら超えて飛行を続けてしまう。他の役者であれば「あり得ない」と一蹴されてしまう強引な設定も、トム・クルーズの存在感によって成立している。観客は「展開が強引なのはわかっているが、これでいいのだ。他ならぬトム・クルーズが演じているのだから」と、この映画のでたらめなフィクション性を進んで受け入れる。こうした芸当が可能なのは、彼が真のスターである証だ。

若手パイロットを鍛えるトレーニングが本作の中心となるが、マーヴェリックを年寄り扱いする若手をこてんぱんにやっつける模擬戦闘が、軽快なモンタージュで描かれるくだりも実に小気味いい(腕立て200回!)。「どんなに厳しい仕事も、訓練も、つまるところすべてが遊びなんだ。楽しもうぜ」と言わんばかりのアメリカらしい精神に魅了される。かつて『トップガン』を見た私が魅了された、「アメリカ人は何をしても遊んでいるように見える」爽快さがよみがえってくるようだ。ラストの作戦遂行では、教官だったはずのマーヴェリックが結局はみずから飛行機に乗り込んで現場へ出てしまい、そして撃墜王となって作戦を成功させて意気揚々と帰還する。一般的な映画であれば、都合がよすぎる上に節操のないプロットに感じられるだろうが、本作においてはむしろストーリーの強度を高める方向に働く。すべてをトム・クルーズがさらっていくこの展開に対して、観客が異議を唱えようはずもないだろう。何のてらいもなく堂々と流れる「デンジャー・ゾーン」を耳にした私は、ただひれ伏すしかないのだ。

結局お前が行くんかい

But not today

みずからの身体性をスクリーンに刻みつけんとするトム・クルーズのアクションは、年を追うごとに過激になっていく。実物の飛行機に乗り込み、飛行中に発生する強力な重力加速度(G)に耐えながら撮った本作は、「実物が映っている」という途方もない実在感に満ちている。現場を愛し、自分の身体を動かし、実際に存在するものを撮るというシンプルな哲学。コロナ禍で苦しむ映画館のオーナーに直接電話をかけて励ました、という彼らしいエピソードにも胸を打たれる。劇場公開とストリーミングなど、映画を取り巻く環境も大きく変わってきており、いつかトム・クルーズのようにオールドファッションな映画人の居場所もなくなってしまうだろう。しかし彼はその暗いさだめを認めながら、「だが今日じゃない」とキメてみせるのだ。

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