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村中直人『〈叱る依存〉が止まらない』(紀伊國屋書店)

「叱る」とはなにか

朝日新聞9月16日13面で気になる記事を見つけた。「オピニオン&フォーラム なぜ叱ってしまうのか」。臨床心理士の村中直人という方のインタビュー記事で、聞き手は子どもを強く叱ってしまうことに悩んでいる女性だった。この記事が実に的を得ていて、思わず読み込んでしまった。村中氏は『〈叱る依存〉が止まらない』という本の著者だ。女性との問答を通して考察される「人を叱る」行為の意味。この新聞記事に「なるほど」と感心した私は、彼の著書を買い求め、さらに深く納得したのであった。シンプルかつ明快、実行すれば生きやすい社会になる提言の数々。気がつけば、あっという間に読み終えてしまった。この本の内容を紹介する前に、まずは著者にとって「叱る」とはどのような行為を指すか、著者による具体的な定義を紹介するところから始めたい。著者がなくしたいと思っている「叱る」行為とはこのようなものだ。

【「叱る」の定義】
言葉を用いてネガティブな感情体験(恐怖、不安、苦痛、悲しみなど)を与えることで、相手の行動や認識の変化を引き起こし、思うようにコントロールしようとする行為

効果がない

本書でもっとも胸がすっとしたのは、「叱るのを止めた方がいいのは、単純に効果がないから」という指摘であった。最高。読むだけでスッキリしてきて、サウナから出てきた後みたいな爽快感があった。よくぞ言ってくれた! と快哉を叫びたくなる一冊である。「ネガティブ感情のメカニズムを利用する『叱る』という行為には、人の学びを促進する効果はありません」と著者は述べる。つまり、叱責によって人を怖がらせると、その場から一刻も早く逃れたいという感情が働き、「はいはいすいません」とすぐに態度を是正するが、単にその場しのぎでしかなく、深く考えることを止めただけなので、本質は何も変わらないのだという。相手に不安や恐怖を与えない「適切な注意や指導」には効果があるが、相手のネガティブ感情(恐怖、不安、苦痛)を利用する「叱る」行為からは、何ら建設的な効果は見込めないという。そもそも「叱る」行為を特徴づけるのは、その攻撃性だと著者は定義づける。叱る者は恐怖の利用を目的としているのだ。

叱る側が攻撃的になるのは、叱られる側になんらかのネガティブな感情体験を与えるためだと考えられます。逆に言うと、叱られる側にネガティブな感情を発生させる必要がないのなら、わざわざ攻撃的なコミュニケーションをする必要はありません。つまり、「叱る」を「叱る」たらしめている最大の要素は、叱る側にあるのではなく、受け手側の感情体験にあるのです。もし叱られる側のネガティブ感情を伴わないでよいのならば、「説明する」「説得する」など他の言葉で言い換えることが可能なので、「叱る」でなくてもよいはずです。「叱る」という言葉でしか表現できないこの行為の本質は、その攻撃性であり、ひいては受け手の側に生じるなんらかのネガティブな感情体験とセットになっていると考えることができるでしょう。

権力の不均衡

この本を読んでいると、私がこれまでの人生で出会ってきた、たくさんの「叱り好き」の人びとの顔が浮かんでくる。彼らは揃って、私にこう述べたものだった。「俺だってさ、こんなこと言いたくて言ってるんじゃないんだよ。こっちだって忙しいんだ。ただ、言わないとお前のためにならないから、仕方なく言ってるんだぞ。俺にこれ以上厳しいこと言わせないでくれよ」。そのわりには長時間に渡って、ずいぶん気持ちよさそうに叱責を繰り返してきた「叱り依存」の面々は、まあまあ暇そうであった。本書によれば、彼らは人を叱ることで相手をコントロールする充足感に依存してしまっていたのであり、しだいに叱責はエスカレートしていくほかないという。権力の不均衡(片方は言い返すことができない弱い立場にある)に基づく一方的な叱責には「叱る人が気持ちよくなってしまう仕組み」があり、やがて依存を生むのだという。私はずっと「叱るのって意味ないよな……」と思っていたのだが、その推測はやはり当たっていた。「叱ること」には効果がなかったのだ。ただ嫌な気持ちになるだけで何の効果もないとは、ずいぶん時間をムダにしてしまったものである。

それでも多くの人が「叱ること」に意味を見いだしてしまうのは、「苦しまないと人は変わらない」という根拠のない信仰があるからだという。そうそう、これも多くの人が陥りがちな誤解だ。あれは何なのだろうか。苦しみを経験しなければ一人前になれない、苦しみのない仕事(あるいは部活動、学校生活、人生)は存在しないと信じている人って本当に多い。「乗り越えてほしいと思って、あえて厳しく接した」(叱り依存の正当化)とか「厳しく育てられたから強くなれた」(生存者バイアス)、あるいは「今のうちから理不尽に耐えられる強い心を育てることが必要だ」(ただの嫌がらせ)といった誤解、いわば「苦痛神話」とでも呼ぶべき思考が広く信じられてしまっており、これを乗り越えるのが非常に難しいと著者は書いている。実社会においても、相手を怖がらせるような威圧的態度を取る人が、なぜか「仕事に対して真剣さや緊張感を持っている」とみなされて、高く評価される仕組みはいまだになくならない。普通にダサいと思う。『〈叱る依存〉が止まらない』は、なぜ「叱る」行為がこれほどに有意義なものだと誤解されているかの仕組みをつきとめようという書物だ。

叱られても成長しない

「叱る」には人の学びや成長を促進する力がないこと、それなのに「苦しまなくては人は変わらない(学ばない)」という思い込みが、なぜか人の中に根付いていること、これらがなぜ起こるのかを理解するためには、目に見える現象だけでなく、目に見えない「人の内側」で起きている現象やそのメカニズムに目を向ける必要があります。

こうした視点で書かれた本書は、職場における叱責、学校における指導、犯罪者更生、子どものしつけ、ドメスティック・バイオレンスなどの具体例を挙げつつ、そこで発生する権力の不均衡、処罰感情、その結果起こってしまう悲惨な結末について書かれた好著であり、ハラスメントや暴力を減らすために必要な意識の変化をうながす一冊であると私は思う。なぜ無意味な「叱る依存」が発生するのかのメカニズムを学べるのが実にいい。世の中には「心理的安全性」といった言葉も、少しずつ広まってきた。穏当な考え方であると思う。グーグルが職場で大切にしている基準だという話であり、「グーグルが取り入れている」といえば何でもよさげに聞こえる錯覚を利用してでも、広めていきたいルールだ。何より、人を脅かしたり、怖がらせたりする権利がある人などどこにもいないのだ。ものごとをよくしたいのであれば、誰もが心理的安全性を感じながら暮らせる状況を作る必要がある。まずは叱るのやめよう、あれマジ意味ないから。

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