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『ロン 僕のポンコツ・ボット』と、注意経済にあらがう方法

子どもにも伝わる注意経済の危険性

子ども向けCGアニメ映画『ロン 僕のポンコツ・ボット』は、その親しみやすく柔和なビジュアルイメージからは想像もつかないほど、批評性の強い作品です。いま顕著になっている、SNSが依存性の強いプラットフォーム・デザインによって人びとの注意・集中力を奪い、利益を上げる仕組みは「注意経済Attention Economy」と呼ばれて議論の対象になっていますが、本作は注意経済批判として明確な主張を持っています。脚本は細部まで練られ、生まれたときからインターネットが身近にある子どもたちこそ、本作をリアルに感じるのではないでしょうか。作り手のメッセージや、有意義で豊かな人生とは何かという問いが随所に込められた力作であり、多くの方に見てほしい充実した1本です。

主人公の少年バーニー(声:ジャック・ディラン・グレイザー)は、学校でクラスになじめず孤立する生徒。友だちが見つからず、クラスメイトには嫌がらせをされ、周囲がみな持っている「bボット」も持っていません。bボットとは、小型ロボットにAIとスマートフォンの通信機能がプラスされた見守り用機器で、子どもたちはこのロボットを使って日常生活や趣味をSNSへシェアし、自分自身を周囲に知ってもらうきっかけを作りつつ、AIがアルゴリズムを使って見つけてきた「同じ趣味の友だち」「気が合いそうな相手」と友人になります。子どもにとっては友だち作りのための必須ツールであり、bボットを持っていないバーニーは孤立してしまっています。

家族に「bボットが欲しい」と頼んだ主人公でしたが、親が買ってきてくれたbボットのロン(声:ザック・ガリフィアナキス)は故障していました。ロンはネット接続できず、会話もちぐはぐで、bボットにとってもっとも必要な「持ち主の友だち探し」もできません。失望するバーニーでしたが、しばらく一緒にいるうち、お互いに気が合うことがわかり、彼らは楽しい毎日をすごし始めました。一方、製造元のバブル社は、挙動のおかしなbボットがいることを発見。問題が大きくならないよう、回収して事なきを得るべくロンを探し始めましたが、彼はネットに接続されていないため捜索は難航します。バブル社の追っ手がやってくるなか、バーニーはロンを守るため、一緒に逃亡するのでした。

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偶然にさらされる

本作がみごとなのは、物語において主人公が「偶然にさらされる」ことで豊かな経験を得る、精神的に成長するという一連の描写です。こうした洞察の視点には唸らされました。劇中、バーニーとロンの出会いは偶然でした。一方、正しく機能するbボットは、アルゴリズムを元に友人を絞り込んでいきます。データのマッチングによって確実性を高め、結果として、より「話が合う」「意気投合しやすい」相手が選ばれるのですが、こうした「絞り込み」によって何が失われるかを、普段われわれはあまり意識しません。注意経済を批判したテキスト『何もしない』(早川書房)は、「非常に優秀なアルゴリズム的な『絞り込み』は、何が、どんな理由で好きなのかという、かつてないほど安定したイメージのなかに私を徐々に閉じ込めているのではないかと思える」と述べて、アルゴリズムを警戒します。あらゆる方向へ開かれていたはずの自己の可能性が、「絞り込み」によって閉じてしまうのではないかというわけです。

では『何もしない』が述べる人間関係、すなわち「アルゴリズムが勧めてくる友達になれそうな人たち──『私が興味を持っていることにかんする知識が豊富な人』、『キャリアの構築を何らかの形で助けてくれる人』、さらには『私が欲しいと思っているものをもっている人』などの基準に従えば『正解』だとされる、印象に残る人たち──だけを気にかけて人生を送ること」には、どのような弊害があるのでしょうか。著者は「機械的に抽出された特質(たとえば、好きなものや買ったことがあるもの、共通の友達など)にもとづいて友達になったらどうかと勧めるアルゴリズムと、配慮するような、『わかりやすい』機械的理由のない、家族でも友達でも(ときには友達になれそうな人でも)ない人たちの傍らに私たちを配置する地理的近接とではまったく働きが異なる」と述べます。ここで述べられる「地理的近接」はとても重要な視点ではないでしょうか。

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地理的に近接しているだけの他者

たまたま近くにいただけの、特にこれといって共通点もない誰かに対して心を開き、配慮し、交流することが「地理的近接」の本質です。アルゴリズムなしで出会う他者との「地理的近接」によって、われわれは偶然にさらされます。どのような相手と出会うかわかりませんから、場合によっては気まずい思いもするでしょうし、気が合わない可能性もあります。実際、ロンが「友だち」候補として連れてくるのは、バス停にいた老人やレザージャケットを着た陰謀論者など、バーニーとは何の共通点もない人ばかりでした(この点も非常に重要です)。偶然のもたらす遭遇がなければ、人生は退屈になるばかりでしょう。

たしかに、他の子どもたちは故障していないbボットを持っているかもしれませんが、彼らはみな強迫的にSNSへ依存しており、まったく幸福ではありません。さまざまな動画をアップするものの、再生回数が伸びず不安にかられる少年。人前で恥ずかしい失敗をした場面が拡散バイラルされてしまい、「この先、私には一生、あの失敗がついてまわる」と泣き出してしまう少女。SNSによって、自己イメージが揺るぎやすく弱いものになってしまった子どもたちは、楽しみからではなく不安から、よりSNSに依存していくほかないのです。SNSの残酷さや依存性が強調されるこうした描写は、子どもにも理解しやすいものだと感じました。

一方、故障という偶然によってロンに出会ったバーニーだけが、楽しみを感じながら暮らしています。何が幸福をもたらすのかは予測がむずかしく、より偶然にさらされている人間ほど、幸福を得る可能性が高まるのだと作品は主張します。こうしたメッセージを伝える際にむずかしいのは、ややもすると「聖人君子ぶってインターネットを我慢している」「自分は高尚だと思い込んで、SNSを使う人びとを見下している」という風に誤解されてしまうことです。注意経済批判とは、決して現代版ラッダイト運動ではありません。大事なことは、可能性を絞り込まず、偶然に対して開かれた状態を保つ姿勢なのです。集中力を保って大切なものごとに目を向けるようとすると、SNSには弊害が大きすぎるのです。ネット上で見られる残酷さや、SNSへの強迫的な依存は、子どもたちにとっても身近で気がかりな問題であるはずです。それらを逃げることなく描きつつ、アルゴリズムに依存しない豊かさとは何かを考えた本作に胸を打たれた私は、スクリーンへ向かって快哉を叫ぶのでした。

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