見出し画像

『マイスモールランド』と、すぐそばにある地獄

難民申請を却下された少女

埼玉県に住むクルド人家族を描いた映画『マイスモールランド』の主人公は、クルド人の少女チョーラク・サーリャ(嵐莉菜)。いまは高校に通いつつ、いずれ小学校の教師になりたいという夢を抱いている。コンビニのアルバイトで進学費用を貯めるサーリャは、同じクルド人コミュニティから頼まれる通訳や事務作業などの雑務をこなす役割を担わされてもいて、部活動を断念しなくてはならなかった。ある日、一家4人はそろって難民申請を却下され、在留資格を喪失してしまう。ビザがなければ大学進学も、アルバイトもできず、許可なしには居住地の埼玉県から出ることすら許されない。父は入管施設に収容されて出てくる見込みがなく、残された家族の暮らしは困窮していく。

社会から放逐された一家の姿を描いた本作は、監督の川和田恵真が日本のクルド人コミュニティへの取材を重ねて完成させたルポルタージュ的な要素も強い。入管法の問題について考えるきっかけとして、またこの国が人を人として扱わない態度を変えていく一助として、本作には意義があると感じた。川和田は是枝裕和作品の助監督だった人物であり、「孤立した家族」のモチーフは、是枝の『誰も知らない』(2004)や『万引き家族』(2018)を連想させる。社会的なテーマを扱いつつ、個の存在をあくまで中心に置いた物語の展開に好感を持ったが、これもまた是枝譲りではないだろうか。

大学進学を控える主人公

居場所の喪失

最後まで見通すのがとても苦しい作品である。なぜなら劇中でサーリャが経験するのは、徹底した拒絶と居場所の喪失であるためだ。何の罪もない一家がこのような仕打ちを受ける理由は何だろうかと、あまりの残酷さに言葉を失うが、これが完全なフィクションであれば「どうせ作り話だから」と自分に言い聞かせることで上映時間を乗り切れるかもしれないと思う。しかし本作で起こるできごとは現実に即しており、このような状況に置かれて苦しむ人びとが日本には多く存在している。『マイスモールランド』は、実際に起こったできごとの語り直しだからこそ観客を動揺させるのだ。日本はなぜ、ここまで外国人に対して残酷なのか。

難民申請の却下を通達する市役所職員も、主人公に「お人形さんみたいねえ」と声をかける女性も、不法滞留者をコンビニでは雇えないと伝える店長も、ていねいな言葉遣いと礼儀正しさを保ちつつ、「あなたはこの社会に属していない」と告げている。この「腰の低い拒絶」が本作の大きな特徴である。彼らは「誠に恐縮ではありますが、お引き取り願えますか」と、穏やかな口調で主人公に伝えるのだ。引き取るはいいが、いったいどこへ? 主人公は進学の機会を失い、アルバイト先をやめさせられ、大切な人との関係が終わり、家賃滞納で住む家を追い出されそうになっている。そして私たちの住む国は、外国人に対してこのように酷い仕打ちをすると認めざるを得ない。たしかに日本では銃犯罪や強盗は少ないかもしれないし、安全であることは認めるが、この国で大きな不安を感じずに暮らしていけるのは、私自身の容姿が日本人的であり、日本の国籍を有しているからにほかならず、別の条件を生きる者にとっては地獄のような場所なのだ。

ラーメンは音を立ててすするべきか否か

主人公の生きるスモールランド

劇中で主人公が誰かに何かを伝えるとき、どのタイミングでカットが変わるかに着目してほしい。そこには主人公の逡巡や決意が込められている。たとえば、川沿いに腰かけてパンを食べる主人公と、高校生の少年との会話を正面からとらえた場面はどうだっただろう。私が思わず声をあげそうになるのは、これまで自分はドイツ人だと偽っていた主人公が、実はクルド人だと打ち明けるくだりだ。少年に「本当はどこの国から来たの?」と訊かれた次の瞬間にカットが変わる、ドラマティックなつなぎに圧倒されるのである。主人公の表情をとらえる別角度からのカットにつなぐ編集が、自分の出自を明かすことへの抵抗感をみごとに示している。ああ映画だ、と感嘆するような場面ではないか。

タイトルの『マイスモールランド』とは、一家が滞在を許された埼玉県のことであり、彼らを縛るかせである。埼玉県から出た主人公は、大きなトラブルに巻き込まれる可能性がある。少女がアルバイト先のコンビニへ行くために越えなくてはならない東京と埼玉の県境は、まるでアメリカとメキシコの国境線のように、またぐ者にある種の覚悟をつきつける。繊細な人物描写で映画の世界に入り込んでいくのと同時に、あまりに残酷な現実を直視するのが苦しく、早くこの映画の世界から出たいと感じてしまうようなリアリティがみごとではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?