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物語の「犯人は誰か?」に興味が持てなくて困っています

犯人は別に知りたくない

映画『鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎』(2023)に興奮した私は、ストーリーの参照元である『犬神家の一族』(1976)をひさしぶりに見てみることにした。以前、テレビで放映したのを見たような気がするが、記憶が定かではない。再見した『犬神家の一族』は実におもしろかった。監督市川崑のスタイリッシュなショットが冴えている。犬神佐兵衛が亡くなり、金田一耕助が那須湖畔を訪れる……という冒頭から一気に引き込まれた。ところが、謎の殺人事件が連続し、犬神家が混乱に陥るところまでは盛り上がるのものの、犯人が誰かが判明し、「どのように殺したか」の解説場面になると、とたんに気持ちが萎えてしまった。断っておくと、これは決して映画が悪いのではない。『犬神家の一族』は、最初から最後までずっとおもしろい作品である。エンタメとしてやるべきことを的確にやった秀作だ。ただ単に、私個人の性格として「犯人が誰か」にうまく興味が持てないのである。

私は、ミステリの映画や小説、ドラマなどで事件が起こった際、誰が犯人か、どのように犯罪を隠蔽したのかなどの細部にまるで関心がわかない性格だ。『犬神家の一族』でいうなら、佐兵衛が亡くなり、遺言状が公開され、遺産争いが激化していく、そして次々に人が死んでいくという過程そのものがなにより好きなのである。誰が犯人かはわからないが、陰惨な事件は止まることなく、湖畔の屋敷は異様な雰囲気に支配されている状態。それだけで私は大満足なのであり、むしろ犯人が誰かは明かされなくてもいい。その異様なムード、疑心暗鬼の人びとや、那須湖畔のダークな雰囲気をただ味わっているだけで、もうお腹いっぱいなのである。そこへ流れる大野雄二のソウルフルな劇伴。クゥーッ。このゾクゾクするような恐怖がずっと続いてくれればいいのに、と願ってしまう。だからこそ、ミステリ作品の最後で謎が明かされると、それ以降がうまく楽しめず、「あー、犯人見つかっちゃった……」と落胆してしまうのであった。

『ツイン・ピークス』が失速した原因

もし『犬神家の一族』が、誰が犯人かわからないまま上映時間の終わりに達し、金田一耕助が頭をかきむしって「迷宮入りですな……」とつぶやき、そこで「終演」とクレジットが出れば、私にとってはベストなエンディングになるのだが、多くの観客はそれを許してくれないだろう。それはエンタメではなく純文学になってしまう。物語には納得が必要だという意見もわかる。こうしたことを書いていて思い出すのは、デイヴィッド・リンチのテレビドラマ『ツイン・ピークス』(1990〜)である。彼の自伝『夢見る部屋』(フィルムアート社)には、このような記述があった。

当初から、この番組の原動力は「だれがローラ・パーマーを殺したか?」という謎だった。この謎はあらゆるエピソードの根底にある物語の緊張感の中心だったのに、第二シーズンの途中でネットワーク(ABC)は、殺人者の正体を明かせと厳命した。そこからはもう下り坂だった。(…)「なんとか謎を維持しようと戦いましたが、ネットワークはずいぶん強硬でしたよ。(…)殺人者の正体が明かされてから、タイヤの空気がかなり抜けてしまいました」

『夢見る部屋』(フィルムアート社)p330

わかる、と思った。局の指示で犯人の正体を明かした結果、『ツイン・ピークス』の第二シーズンは失速してしまうのだが、たしかに謎を解説することは「タイヤの空気を抜く」行為なのかもしれない。私は『ツイン・ピークス』の陰鬱なムードを愛していた。観客は、緊張感の維持と引き換えに納得感(犯人はコイツだったのか!)を得るのだが、私は納得が不要な性格なので、ずっと緊張感を保っていたいと思ってしまう。エンタメとしては、犯人を明確にするのは重要なのだが、リンチの作品はむしろ純文学であり、そのムード、緊張感を楽しむことこそ大事だったのだ。私はその「タイヤの空気を抜く」感覚がニガテなのかもしれない。誰が犯人なのかわからないまま、ずっと怖がっていたい。いっさいの謎が明かされないまま話が終わってほしいのである。そんな映画や小説がたくさんあれば嬉しいが、きっと「オチがない」と叱られてしまいそうな気がする。

【この本は、最後に一応それっぽいオチ的なものが用意されていますが、おもしろいと思います】

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