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『ブギーマン』と、家族の再契約

普遍的なテーマ

スティーブン・キング原作のホラー映画。キング原作のホラー作品を見るのが楽しいのは、そこに明確なテーマが埋め込まれているからである。物語を通して「成長」や「疎外感」「不寛容」など、普遍的な主題が浮かび上がってくるからこそ感動が深い。そうしたモチーフが、ホラーというジャンルを通じて描かれるのがすばらしいのだ。今回の『ブギーマン』も、しだいに見えてくる主題が実に力強く、「ああ、アメリカ映画だな」と妙に納得してしまった。映画の中心になるのは、母親を失った父子家庭。父と娘ふたりの3人は、母親の不在という喪失感を抱えながら暮らしているが、ある日、妹が奇妙な形をした動く存在を目にしたことから、3人の暮らしに大きな変化が訪れる。その存在は「ブギーマン」と呼ばれているらしいのだ。

ブギーマンは、ある家族が脆弱になり、団結が弱まったタイミングを狙ってやってくる怪物だ。ブギーマンが主人公の家族を襲う前に棲み着いていた家は、小さな子どもを事故で失ってしまった一家だった。悲しみで衰弱した両親。こうした危機にブギーマンはつけこんでくる。ブギーマンは悲しみや苦悩で一家の絆が弱まった瞬間を察し、ここがチャンスと襲いかかってくるのだ。こうした主題がしだいに見えてくる中盤は実にすばらしく、「なるほど、これがテーマなのか」と理解できた瞬間に、ホラー描写にさらなる奥行きが生まれる。一方、ホラー映画的な定番描写も多く、なぜか部屋をやたらと暗くしている主人公の家を見ていると、もうちょっと照明を明るくした方がいいんじゃないのかと思ったりもするが(ブギーマンは明かりが苦手なのだ)、そうした定番の展開も含めてジャンル映画らしい雰囲気が感じられた。姉妹を演じる少女は、ふたりともとてもいい演技をしていた。

結構怖かったです

阿吽の呼吸を許さない

アメリカの家族映画がおもしろいのは、「ただ何となく、家族として一緒にいる」「同じ家にいるのだから、あえて言葉に出さずとも気持ちは通じ合っているはずだ」といった、あいまいな状態を許さないことである。暗黙の了解、阿吽の呼吸といった関係性は、アメリカの家族にふさわしくない。家族が団結し、共に生きていくためには、言葉や態度で明確なメッセージを発して、「自分たちにはこういう目標や進むべき道がある」「だからこそ、お互いに協力しあって、家族としてつながろうではないか」と意思を確認しあう必要があるのだ。いわば家族内での契約である。母親を失った3人の家族は意思疎通ができず、多くの問題を抱えていたが、ブギーマンという恐怖を前にあらためて団結し、決死のたたかいを経て、これからは3人で手を取り合って生きていこうという再契約を結ぶ。家族のひとりひとりがしっかりと契約を結んでいれば、ブギーマンは太刀打ちできない。こうして3人は母の死を乗り越える。そこが本作のユニークさである。

日本映画における家族の描写、すなわち「特にこれといった話し合いや意思疎通もないまま、ただ何となく、あいまいな集合体としての家族がある」という描写は、海外から見れば妙なのかもしれないと、ふと思った。無言で食卓につき、お茶碗によそったごはんを渡されて食べれば、それだけでなにか家族らしきものが成立してしまうような部分が、日本の家族にはある。だからこそ、本作における「私たちは家族として共にあるために、全力を尽くしてたたかい、協力しあわなくてはいけない」という意思の確認に驚くのだ。雰囲気や空気で伝わるニュアンスのようなもの、忖度、そういったあいまいさを排していった先に幸福がある、というアメリカの家族像に感動すると同時に、文化の違いを思わずにはいられないのである。

【スティーブン・キングの小説くらいおもしろい、私のスキンケア本です】

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