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『ザ・スーパーマリオブラザーズ・ムービー』と、任天堂が積み上げてきたレガシー

ゲームの映画化

任天堂のテレビゲーム「スーパーマリオブラザーズ」シリーズの世界を映画化した本作。話題性も多いが、見る前は不安も少しあった。1993年に一度、実写化で痛い目にあっているし、本作にしても、予告編が公開された時点では声優に対する批判が多かった(特にマリオ役だったクリス・プラット。なぜ批判されていたのか、そこまで情報を追えていないが、妙に不評だった)。しかし実際に作品を見てみると、これが元となるゲームに対する細やかな愛情にあふれた実に楽しい映画で、すっかり感動してしまった。字幕版で見たのだが、声優陣も揃っていきいきと声をあてている。期待を大きく超えた仕上がりとなった、秀逸な作品ではないだろうか。

『スーパーマリオ 魔界帝国の女神』(1993)。ルイージはレグイザモだよ

ゲームをまったく遊んだことがない人が、映画をどこまで楽しめるかは正直わからない。本作は「まずはゲームありき」であり、オリジナルのスーパーマリオを最大限に尊重した作りが特徴であるためだ。たとえば冒頭、配管工の仕事をするためにブルックリンの町を走るマリオ(クリス・プラット)とルイージ(チャーリー・デイ)を、横スクロール2Dゲームの視点で見せていくショットなど、ゲームで遊んだ経験のある人ならすぐにわかる演出で、なるほどと唸ってしまう。キノピオの国を移動する場面にも、ゲーム内に登場する透明の土管やエレベーターなどのギミックが再現されており、見ているだけで楽しい。ゲームに登場するキャラクターや各種デザイン(ハテナブロックなど)、BGMが巧みに盛り込まれた本作を見ながら、「ゲームと映画の融合とは、なるほどこのことか」と納得させられてしまった。

キノピオは英語で Toad と呼ばれているのだ

きわめて健全な作品

また、本作の「どこまでも健全で、そつがない」部分も大きな魅力である。全年齢向けで、きわどい冗談や暴力性がなく、安心して見ていられるのがいいのだ。それは任天堂という企業のポリシーでもあるのだが、私は年齢を重ねるごとに、こうした「健全で前向きな作品」が持つ可能性、見る人に与える好影響を感じるようになっている。健全な作品に希望を見出す、自分自身の傾向ともうまく合致した映画であった。例を挙げれば、敵役のクッパ(ジャック・ブラック)のたたずまいには、どこかに遊戯的な「ごっこ」の感覚がつねにただよっており、決して暴力的にはならず、愛すべき悪役というほどよい位置に収まっている。劇中、クッパがピアノで弾き語りをする場面など、そうした遊戯性と、声優であるジャック・ブラックの得意な持ちネタがうまく融合していたと思う。

何より本作がすぐれているのは、多くの観客が持っている「ゲームで遊んで楽しかった記憶」を掘り起こすことで感動を与える構造になっている点ではないか。映画を見ていると、「そうそう、昔こんな風にワクワクしながらゲームやってた」と感じられるのだ。最近あまりゲームをしていない大人の観客であっても、子どもの頃の「ゲームって楽しかったな」という過去を懐かしく思い出すことができるような作りになっている。映画を見ながら、これまで任天堂が何十年にも渡って積み上げてきたレガシーの強さに圧倒されてしまった。しかも、この映画に出てくるのは、任天堂のキャラクターのごく一部にすぎないのだ。ゼルダ、メドロイド、どうぶつの森、カービィなど、映画にできそうなIPはいくらでもある。この調子で任天堂がさまざまなゲームシリーズを映画化していけば、それこそ「任天堂・シネマティック・ユニバース」が作れてしまうのではないかという気がする。あるいはもうそうした計画は始まっているのかもしれないと、あまりに完成度の高い本作を見ながら感じた。

【スーパーマリオとは全然関係ないんですけど、私の本が出たので読んでください】

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