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『ブラック・ウィドウ』と、新しい家族のかたち

なぜヒーロー映画は擬似家族を描くのか

ヒーロー映画における疑似家族のテーマには興味ぶかいものがあります。たとえば『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(2014)や『デッドプール2』(2018)、あるいは『ローガン』(2017)といった作品において、血のつながっていない者たちが集まり、擬似的な家族を形成していくというモチーフは繰りかえし描かれます。これはいったいなぜなのでしょうか。もっともありそうな見立ては「家族をアメリカという国のメタファーとして描くことで、出自や人種、境遇などに関わらず、互いの人間性によって繋がっていくストーリーが、現代的な『共存の価値観』を示す」というものです。この解釈が間違っているとは思わないのですが、別の視点から考えることはできないだろうかと、いま私は新たな見立てを探しています。

『ブラック・ウィドウ』もまた、疑似家族にまつわる物語です。ブラック・ウィドウ(スカーレット・ヨハンソン)の両親は、ロシアのスパイであったことが明かされます。夫婦は米国内での諜報活動のために仮面夫婦として暮らし、ふたりの子どもを育てながらスパイの仕事をこなしていました。ブラック・ウィドウの両親は愛情で結ばれた夫婦ではなく、仕事上やむなく家族を演じることになった同僚だったのです。ふたりの娘を産んだのは別の人物であり、血のつながった両親ではありません。これは、ふたりの子どもにとっては悲しい事実です。両親が実のところ任務上の必要性から偽装結婚していた疑似夫婦でしかなく、家庭のあたたかみが否定されてしまうためです。任務だから一緒に暮らしていただけだ、という事実はあまりにも残酷で、娘には「自分にとっては本当の家族だった」と信じたい気持ちが残っています。

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ロールプレイとしての家族

本作におけるブラック・ウィドウの家族は、まるで演劇のようにリアリティに欠けた、ロールプレイの連続でした。両親にとっては「フリをすること」が任務の一部であり、長らく演技を重ねてきたのです。この「演劇的な家族」という本作のモチーフを、私はとても気に入っています。なぜならほとんどの家族にとって、日々の営みは多かれ少なかれ演劇的であるためです。たとえ家族であっても、演技し、ストーリーを作っていかなくてはならない。その後ブラック・ウィドウはアベンジャーズに加入し、彼女にとって家族のような存在だと思わせるほどの所属の感覚、忠誠心をかき立てますが、そのアベンジャーズもいまや空中分解の状態。ブラック・ウィドウは、どうしても「家族なるもの」を手に入れることができません。家族とは不確かな概念であり、つかまえようとすると消えてしまうまぼろしのようです。

ブラック・ウィドウの成長とは、家族にまつわる幻想を捨て、不完全な家族のかたちを受け入れていく過程であるように見えます。無条件で自分を支え、決して揺るがない基盤となるような、どっしりとした「家族」のイメージを手放し、日々お互いを思いやる演技としての家族、ロールプレイとしての家族を受け入れるまでの過程。そもそもすべては演技なのだから、血がつながっていなくとも関係がないのです。アメリカには「家族」にまつわるオブセッションがあると思いますが(たとえば、ロナルド・レーガン元大統領の「ファミリーバリュー」演説のような、血縁家族を社会の基礎とする考え方)、ヒーロー映画における擬似家族のモチーフは、こうした旧来的な家族の価値観を乗り越える可能性があると感じます。あるいは家族というオブセッションの乗り越えが、ヒーロー映画のテーマに変換されているのではないでしょうか。本作では、洗脳された女性が自己の意思を取り戻す過程なども描かれ、フェミニズム映画としての側面もあるのですが、個人的には、ヒーロー映画における擬似家族の系譜を読み取ることができ、とても興味ぶかい作品でした。

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*Superhero Landing

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