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短編小説 「ヨーグレイヒア」 1

 過ぎた世界の片隅で、ヨーグレイヒアは空を見つめていた。

 母親はユグドラシル、父親はアクシャヤヴァタの細分化されたコミュニティの、固定化された住人だった。
 祝福の日と呼ばれる全ステイトの集会で、天文学者と数学者である二人は運命的な出会いを果たしたようだ。ネットワーク・ステイト間のインヒビションを乗り越えて、心が結ばれた二人は互いの遺伝子を出し合った。
 一年後の同じ祝福の日に、ユグドラシル側の受胎機関で、ヨーグレイヒアは命を授かった。掛け合わされた結果としての性別は女児に決められた。
 五百年ほど前の時代、男性性を決定する染色体の消失が騒がれた時代があって、とあるネズミの研究では男性性を決定するのはY染色体ではないかもしれない、と特定されていたのだが、実際に染色体が消失した男性が生まれ始めると、不安を抱いた人類は染色体の保護に走り始めた。
 それ以前から数百年分の精子が冷凍保存されていたのだが、どれだけ完全な形のY染色体を持つ遺伝子を、自分達の子供に持たせるか、人々は腐心していくことになる。
 と、いうのも、遺伝子技術は必要とされただけ進歩しており、過去の男性の染色体のY遺伝子を残しつつ、父親希望の男性側の遺伝子をそっくり乗り換えさせて、違和感なく子孫へと収める技術があったのに、何故か生まれてくる子供たちの子供たち、つまり孫世代では、それが消失してしまうというYヴァニシングという現象が起きていたからである。
 問題なく継承されていくかに思われていたY染色体が消える……となると、限りある資源に対し需要が高まって、精子の保存機関、つまりY染色体の保存機関は、遺伝子の出し渋りを見せるようになっていく。
 それらはすぐにトークンが関わるような産業へと発展し、完璧なY染色体を持つ男児を産もうとすると、高所得者に限られるという状況になっていき、産まれた後の格差を目の当たりにした低所得者は、自分達の子供として男児を望むこと自体、無くなっていったらしい、というか、そういう現状になっていた。
 ヨーグレイヒアの両親は、ステイトに固定化するくらいには、それぞれのコミュニティへの貢献度が高かったけど、半分の染色体しか持たない父親が、何かと苦労を重ねたようで、僕と似たような思いはして欲しくないから、と彼女の性別を推したらしい。
 母親はどちらでもよかったけれど、子孫への財産分与を考えたとき、少しでも多くのトークンを子に残したいと思ったようだ。女児を選べば資産を減らさずに済む訳で、パートナーの気持ちがあるのなら、と、ヨーグレイヒアの性別を女児に決めた、と言っていた。
 いずれも自宅のホログラムにて、物心がついた彼女へと、マザーAIが希望に則り見せてくれた画像記録から。父親も母親も、愛しているわ、の言葉でしめていた。
 この世界……ヨーグレイヒアが産み落とされた世界には、彼女の他に有機体はなく、管理は全てそれぞれの分野のAIがこなしている。世界人口は一定域を超えないようにAIが管理しているが、昔ながらの伝統に則って、お互いを気に入った男女が互いの遺伝子を出し合うことで、子孫を成すことも許されている。まぁ、それらはほとんどイベントと同程度の認識になり、彼らにしてみれば、運命的な出会いに乾杯、くらいの認識だ。けれど、そう簡単に成せないようにプランニングされていて、生まれた子供へ保護ステイト形成が可能な程のトークンの所持が求められてくるのである。それを管理AIに認めてもらえない場合、受胎機関にも行けないことになっている。ばかりではなく、両親の、生まれてからそれまでの記録が洗いざらい照合されて、良判定を貰えなければ許可が落ちないことになる。
 簡単そうに見えるけれど、子供を持つということは、それほど大掛かりなイベントにもなってきて、通過することは一種の人格の保障に繋がるけれど、トークンの獲得条件に繋がることもないために、人々の要求はそれほど高いものにはならない。ヴァーチャルセックスは常に自由だし、それらは基本的に避妊されているものだから、欲求を満たした先の間違いなどは起こらない。過去、そうした現象が社会問題だったことを、歴史の勉強中に知って不思議な気持ちになったヨーグレイヒアだ。
 この世界で命を受けた子供たちには、基本的人権として一定空間が与えられ、グレーズィングを果たす歳まで肉体的、精神的に守られる。年頃になるとグレーズィングが許されて、プレ・ステイトを決めたのち、自分が本格的に所属するステイトを、数年かけて見極めるのだ。
 ネットワーク・ステイトは様々あって、学者、起業家、農業家、クリエイターなどの進歩・創作コミュニティがあれば、毎日ゲームをするだけの娯楽サイトも存在し、おしゃべりして過ごすだけのサイトだったり、筋肉を鍛えるだけのサイト、サバイバル特化のサイトも存在している。意外と人気なのは山登りのサイトと聞いた。毎日スカイダイビングのサイトもあるらしい。忘れてはいけないのは読書するだけのコミュニティ。コミュニティとサイトの呼び名の違いは、曖昧になっていて特に定めはないそうだ。
 そうした環境の中、殺人という行為は大罪にあたるけど、医療AIの発達もすごいので、生命の危機で死ぬ人は少ない世界。至る所に画像記録媒体が潜んでいるので、それらから裁判系AIが服役年数を決めるという。その間は貢献度が反映されなくなってしまうので、最低限の生活しか送れなくなり、かなりの社会的ハンディを負うことになる。
 どのステイトに属していても犯罪者のレッテルが貼られて見えるので、人に避けられるし軽蔑の眼差しも受けることになる。犯罪者たちの記録として、死ぬより辛い時間、と誰もが言葉を残しているので、精神的に負うものは想像するより大きいのだろう。
 世界中の誰もが基本的な生活を保障してもらえるのだとしても、それ以上の生活を送れなくなるというハンディは、ヨーグレイヒアが想像しても辛いことのように感じられた。
 と、同時に、彼女はいつも、少しだけ考える。
 職業訓練としてのベースは、一通りこなし終えていた。熱心な彼女は本当に様々な分野のことを、AIに聞いて、学習し、体験学習もできるところまでなら全て終えているという状況だった。類稀なる優秀さを見せている彼女だったけど、彼女自身の悩みとして、肌に合うものがわからない。
 グレーズィングを二日後に控えた身としては、外はどんな世界なのだろう、という期待が高い。どんな人に会えるのだろう。素敵な人は居るのだろうか。私にはどんな分野が向いているのかというわくわくもある。でも、どれに所属したらいいのか、皆目見当もつかないでいる状態だった。
 AIが語るには、グレーズィングするまでに、どこにいくかという目標がぼんやりだったとしても、定まる人が多いらしいのだ。記録から見ても、両親も、外の世界に出る前にこれだと思う分野があって、そこに向けての専門的な知識を得るために、事前学習を追加で修めるくらい意欲があったのだ、とも。
 これしかできそうにない、という人が大多数を占める世界で、ヨーグレイヒアはかなり恵まれた才能を持って生まれたと言っても過言ではない。マザーAIも「あなたは優秀です」と客観的なことを言ってくるが、賢いヨーグレイヒアには、マザーAIにプログラムされている子供を伸ばす褒め言葉、との認識にしかならなかったのだ。AIがどんなにどんなに「あなたは優秀」と褒めたところで、彼女の心には響かない。
 ヨーグレイヒアは多分、優秀さを持つために、変な方向に拗れたような女児だった。ただ、幼児心理学のスペシャリストであるAIが、育てたことにより純粋な拗れ女児になった。具体的には異常なまでに謙虚な子供に育っていたのだ。謙虚すぎて己の才能を、全て否定するような人間だった。
 彼女はグレーズィングの当日になってなお、自分の行き先を決めかねていた。母親と同じユグドラシルに向かってみるか。父親と同じアクシャヤヴァタに行くべきか。マザーAIによると二人ともそこに存命のため、グレーズィングを済ませる歳になりました、と少しばかりでもお礼を言いにいくべきか。
 その日、ご大層なインビテーション・ヴィジョンと同じ画像で、ヨーグレヒアの世界、家の一部に、ポートが出現しステイトに繋がる道ができた。
 マザーAIに言われた通り、ポートへ進む。そこから先は説明通りなら中間ステイト、全てのステイトへの道が視覚的に用意された、最後の保護空間につながっているはずだった。一度に大勢の人を見る前に、同じグレーズィングを迎えた仲間たちの顔ぶれを見て、子供たちの心を落ち着かせるように、との配慮らしい。
 ヨーグレイヒアが二、三度瞬きをする短い時間で、大勢の子供たちがざわめきを出す空間にでた。衣装はそれぞれのマザーAIが用意してくれたグレーズィング用の正装だ。世界中の正装で子供たちがひしめくような煌びやかな空間で、ヨーグレイヒアは少しだけ気後れするように、子供たちの中に進んでいく。
 肩がぶつかった男性が、ヨーグレイヒアを見下ろして「すみません」と言ってきた。彼女は驚いたけど、こちらこそすみません、と。互いに、はにかんで、それぞれの目的地へと向かう。いつどこに居たとして記録媒体に監視されている社会である。貢献度をマイナスにする道徳的な態度であるので、滅多な態度に出る人は少ない社会なのである。そうでなくても子どもたちは、彼や彼女が育ったように良い環境に置かれるために、悪態をつくということ自体、頭の辞書に存在しないのだ。こうした普通の環境がこの世界には広がっている。
 程なく、それぞれの巨大ステイトへ繋がるポートが開く、と説明が降る。豪華なシャンデリア、派手な提灯に、風情ある篝火が各所に出現し、大勢の子どもたちが目的のポートへ進んでいく。ここから先一年間は、グレーズィング中の子供に限り、どのステイトを移動するのも自由になるが、このたった一年で自分の居場所を見つけることは、大変な作業になるのではと思い込んでいるヨーグレイヒアだ。
 ロココとサリーの意匠が混ざったドレスを纏う、純粋無垢な少女の足が、人々の流れを見ながら止まってしまった瞬間に、あちこちから喜びの声が上がって、意識がそちらに引かれていった。
 君もこっちに? そうだよ、君も? マジューだ、よろしく。僕はトリニスタ、こちらこそよろしくね。ステイトに向かうポートの列で、そんな自己紹介が広がっていたようだ。立ち尽くしたヨーグレイヒアは、そんな人たちを眺めて過ごす。オージアよ、よろしくね。金髪の美人が声を掛ければ、ブルネットの美人が笑って、サクラコです、と。よろしくお願いしますの気持ちを込めて、手を差し出したようだった。
 その場にいる子どもたちの誰もが、自分とは違う輝きを発しているように見え、気後れしていた心の中に、更に引け目が広がっていく。あちらのステイトに行くのには、私は向いていないのかもしれない、と。そう感じたヨーグレイヒアは、自分と似たような人たちが並ぶ物静かなステイトへ、歩を進めようとしたのだった。
 少し冷静になった頭は、より周りの状態を、落ち着いた目線で処理してくれた。みればやっぱりステイトごとに、性格の種類が分けられている。明るい子が多く向かうステイト、寡黙な子が多く向かうステイト。静かな方へ向かおうと考えていた彼女だったけど、目の前まで来た時に、あまりの静かさに躊躇した。そこに並ぶ子の誰もが黙して、簡単なコミュニケーションを取るにも大変なような気がしたからだ。そうするとまた足が止まって、あまり騒がしくなく、静かすぎないステイトへ……と、辺りをきょろきょろしてしまう。
 心配したマザーAIが、どうしました? と聞いてくれ、ヨーグレイヒアは正直に「どこにいけばいいのか悩んでしまって……」小声で彼女に返していた。周りのどこにもそのような子供は見当たらず、さながらヨーグレイヒアは出来損ないの気分に浸る。これでは子離れできないお子様で、それがとても恥ずかしいことのように思えたからだ。

「やっぱり、自分で決めますね」
『それがようございましょう』

 マザーはいつも通りの優しい声で答えてくれる。
 気持ちを入れ替えた彼女は、程よく賑やかで、程よく落ち着いた子供たちが立つような、ステイトのポートへと移動した。ジィアンムーという名のステイトらしい。列に並んだ前の子がさらに前の子と話し込んでいるらしく、後ろに並んだ子は更に、後ろに並んだ子と話し始めたようだった。少しの孤独感があるけれど仕方ないといえば仕方ない。ちょうどヨーグレイヒアが並んだ頃に、その列は男性の方が多くなってしまっていたからだ。
 美人と美男しかいないような世界においても、彼らは彼らなりの道徳心で、女性であるヨーグレイヒアに対して気安い態度は取れないのだろう。ここから先はお互いに子供の時代を終えて、一人前の大人として見られる時代に突入していく。トークンの獲得につながる貢献度はさておいて、マイナス査定になるかもしれない道徳的行動には細心の注意を払わないといけないし、まして最初から傷のようなものはつけられない。彼女だって似たようなことを思うから、仮に積極的な人間だったとしても、彼らに声をかけることはしないだろう。だからどこを見渡したとして同性同士の会話しか、成り立っていない中間ステイトだ。
 少しずつ自分の順番が近づくほどに、別の緊張にも晒されていた彼女としては、孤立しているように感じる心さえ、持てないくらいになっていた。直前まで会話していた前の男性たちが消えていくと、自分の番を迎えた彼女はいよいよ言葉を飲んだ。
 あなたにとってより良い人生になりますように!
 ジィアンムーの管理AIが歓迎の意を表し、ヨーグレイヒアは光の世界へと足を踏み入れた。

「おめでとうございます! ようこそジィアンムーへ! あなたが今年選ばれたオゥシィァンです! どうぞ、今のお気持ちを!」

 突如、大勢の群衆パネルの前に引き摺り出されたヨーグレイヒアだ。
 自分が立つはずのジィアンムー・ステイト・ポートから、どうやら移動させられてしまっているらしい。
 煌びやかな電飾と、赤絨毯。司会役の男性がすぐにそばにやってくる。
 にこやかな男性だ。好感度は言うまでもなく高く、気後れしている彼女には眩しすぎるような男性だった。

「初めまして、私はウーシャン。お嬢さんのお名前は?」
「ヨ、ヨーグレイヒアと申します」

 緊張でガチガチの彼女から名前を引き出すほどに、男性の印象と話術……というより身振り手振りが上手い。どうぞそちらに、と椅子を勧められ、失礼します、と腰を下ろした。
 ウーシャン、ウーシャンフェンという言葉を知っていたから、もしかしたらこれは彼のビジネスネームなのかもしれない。確か、五香粉のことを指した気がする。混合香辛料のことだから、いかにもこうしたエンターテイメント・コミュニティで使われそうな名前に感じられたのだ。
 固くなったヨーグレイヒアだけど、エンターテイメントの一つと解釈したら、幾分心に余裕が出てきた。まるで吊し上げに思える見せ物だけど、もしかしたらこれがこのステイトの見ものなのかもしれない、と思ったからだ。彼女のこの想像は正解で、オゥシィァンというのはアイドルと同義であり、彼らは彼らのステイトの文化の一つとして、毎年グレーズィングされる新成人の中から一人、28番目にやってきた人を歓迎する、という催しがあったのだ。ヨーグレイヒアはまさにこの、28番目を引いたのだ。


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