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短編小説 「ヨーグレイヒア」 4

 ウーシャンはそれから何度も彼女にメールを送ろうとした。
 寄付だとしてもこれだけのトークンを貰う謂れはない訳で、でも役立てて欲しいらしいし、自分に才能があると言われると、そうなのだろうか……そうなのだろうか? もう一度……もう一度……? と戸惑いが回って分からなくなる。
 それに彼女は、自分にはこのトークンを生かす才能がない、という。
 そうだろうな、とトークンの扱いに慣れている彼は素直に思う。
 だって笑ってしまうくらい彼女は計算ができないのだ。
 ヨーグレイヒアが彼に贈ってくれたトークンは、一緒に仕事をした時に彼が支払った額よりも、明らかに多いものだったから。
 遠く及ばない額ではなくて、その額より多いのだ。
 彼女に人並みの好意を持っているから笑わないけど、明らかに彼女は計算ができていない。生活品などの売買に関わるトークンのやり取りは、きっと人並みにできるのだろうと思うのだ。でもAIが管理しているこんな世界だからこそ、そこに隠れた部分があると思ってしまうのはいけないことか。

 ウーシャンにはそれが彼女にとって、本当に理解できないことなのか、自分のための嘘なのか、それともちょっとした冗談なのか、どうやって判断したらいいのかが分からなかった。

 君はあれだけのステイトを、どうやって作ったの? ジィアンムーの都心部のちょっといい家を買うくらい、設備費が必要だったはずだけど。むしろ君の方にこそトークンを生み出す力があるんじゃないの? ウーシャンにはどうにも解き明かせない謎だった。でも、この謎のお陰で、彼はもう一度浮上するのだ。言わば、謎が彼の迷いを煙に巻いて、何が問題だったのかという追求を有耶無耶にした。
 とりあえず、本当に理解できないのなら、どう断るのが正解だろう。貰う謂れがないと思っている彼は、はじめ、戸惑いが回る頭で必死に考えた。トークンの計算もできないの? と突き付けるのは残酷だ。優しい彼女のことを傷付けたい訳じゃない。だからといって多い分だけ彼女に返すのも間抜けだし、少ない方を気持ちとして貰うのも間抜けな話だ。
 よし、では彼女は賢い女性であるので、遠く及ばない額というのは自分のための嘘だと思うことにする。自分のための嘘ならば、どう断るのが正解だろう。ウーシャンは痛む頭で必死に考察したけれど、これはもう単純に、あぁまで自分を煽(おだ)ててくれた気持ちを思うと断りにくい、そんな場所に降りていた。
 嘘をついてまで贈りたいと思ってくれた彼女の気持ち。それをドブに捨てるのか? という話である。そもそも彼女にしても大きな覚悟が必要だったはず。だって一般的な人間が扱うトークンの量じゃない。それを突き返された時、しかも自分にはもうこれらの資本を扱うだけの気力がないと、ほのかにでも匂わされたなら、とても虚しい気持ちになるのではないのか? と思う。虚しい気持ちは嫌という程、感じて、受け止めてきたウーシャンだ。そんな気持ちにはさせられないと、使命感に似た何かを思う。
 ちょっとした冗談なのが一番マシだけど、冗談……冗談だ、彼女に冗談が言えると思うか? 間違いなく先の二つのうちのどちらかしかあり得ないのだ。なのにどちらも伝えにくくて、言いにくい。
 伝えたいのに口にできない感情はまだあった。
 友人の一人、と思うのはちょっともう難しいかもしれない。友人以上に思えた場合、連絡をしてはいけないのかも。そんなことは書かれていないし、これは何百年も前から決まっている文体で、控えめながら大きな期待を匂わせるものであり、要点の単語を抽出するなら「また関係を持ちたい」と願われている文になる。自分は彼女を思うたび、友人以上の気持ちをむけてしまうかもしれないのに、彼女の方は自分のことを特別には思ってくれないだろう、哀愁が色濃く滲んでみえる。
 でも、おばあちゃんになる前に、彼女は彼女が育てた世界で虫の声が響くことを、確認して欲しいという願望も書いている。いつかまたお友達に戻りたいという曖昧ではなくて、限りなく現実的な、未来ではない将来を。
 できるだけたくさんの人を喜ばせる方向は、興味があって幼い頃から夢見た世界でもあった。それらをトークンが関わるような産業に発展させることも、参加する人たちに価値を持たせるものにすることも。トークンではない紙幣の時代、紙幣が生まれる前の時代で、多くの人々が平等に平等な価値を持つことを、それらに夢見たはずなのだ。だからこそ人類は発展したが、いつからか人と紙幣の価値が逆転してしまう。今だってそうだろう、人の価値とトークンは逆転したままなのだ。それをどうにかしたいなら、少しでも多くのトークンを、獲得し、保有するしかないという矛盾点。
 そうだ。ウーシャンは懐かしい気持ちを思い出した。それらを還元する仕事というのが、まさにステイト・マスターの仕事だったと思う。ヨーグレイヒアという人間の価値、それにトークンを支払った。ジィアンムーのステイト・ピープルも、彼女という素朴な価値に、自らのトークンを支払っていったのだ。
 彼女にメールを返せないまま段々日にちが経っていくと、ウーシャンの心は人間らしく傾いた。
 彼女の価値を思うほど、それほどの価値を持つ彼女から、自分もまたこれだけの価値を見出してもらったような気持ちになったから。稼ぐ才能のある者に「貸した」のではなく「寄付」されたのだ。彼女に倣って素直な気持ちで「認められた」と思ったら、異性を思うむずむずとは違うむずむずに晒された。今、彼は人生で初めて、人間らしい喜びを思う。母親であるマザーAIに褒められた時とは違う喜びだ。こんなに酷い状態なのに、彼女に「価値がある」と思われた。そんなことを言ってくれるのはヨーグレイヒアしかいない。
 何もやる気が起きないでいた自分には引け目があった。貰ったトークンもできるだけ早く返した方がいいのはわかる。でも、これがあるのなら、もう一度市場に挑戦できて、少しでも上手くいったなら君の目は間違ってなかったと、次の機会に彼女を褒め称えることができるかも。
 正直なところウーシャンは、失敗する気がしなかった。当たるかも、という俄(にわ)かな自信で動いている訳ではなくて、当たらない訳がないという論拠を持っている。自分が上り詰めた地位に他の誰かが座っても、自分が失った取引相手が他の誰かの元へ行っても、悔しい気持ちに蓋をしながらもステイトの変遷を辿っていたから。目を背けないでいたことが、背けられないでいたことが、次なるトレンドを掴む力を衰えさせず、蓄えにして、彼女から与えられた活力とトークンを、どこに注いでいけばいいのかが明確に見えていた。
 世間はきっとウーシャンのことを、衰えた老人と見るだろう。いいじゃないか。老人には老人のやり方と夢の掴み方がある。開き直った心には、もはや引け目は無くなっていて、ただ落ちぶれた自分のことを世間に知られることだけが、恥ずかしかっただけなのだという小さな心を理解する。
 次はヨーグレイヒアのように、素朴なおじさんの路線でいこう。シワだらけのシャツを着て、毎日何をするでもない、無生産な自分のことが少し恥ずかしかっただけという、そんな気持ちも隠さない正直なおじさんに。

 そう、彼は浮上した。それは見事な復活だった。

 何故ならジィアンムー・ステイトは彼を忘れていなかった。ほんの三年間ばかりショウジュ地区で休んだだけだ。長い人生の数年なんて、数日みたいなものである。彼が提案してくれる次なる話題も面白かった。彼が転落する原因になった事件のことを聞かれても、素朴なおじさんは、はにかむように過去を語る。素直に悔しかったこと、毎日が精一杯だったこと、せめて管理AIに契約書の不履行だけは見せられないと思ったことを、正直に。
 事実、彼の経歴には無罪の記録しか残らない。どの契約相手からも、ウーシャンは間違いなく補償をしたという旨のコメントしか零されないし、それ故にまた機会があるなら是非一緒に仕事をしたい、と、好意的なコメントすら寄せられた。ヨーグレイヒアにしたように、あの人は今? の配信サイトでウーシャンの現在の姿が多くの視聴者に流れると、彼らはそれを聞き感慨深く思ったし、ウーシャンの方こそが感動させてもらえる気持ちになった。
 彼が再びやる気を出した、と多くの業界人が知ると、ポツポツと仕事が入り、少しずつ忙しくなっていく。その時間の隙間を探し、彼はヨーグレイヒアに、何度もお礼のメールを出そうと試みたけど上手くいかない。
 良い文面だ、と思っても、中々送信の指示を出せない。
 文面じゃ恥ずかしいと思えばヴォイス・メールにしてみたり、何かのイベントに合わせてポストメールを出そうとも試みた。
 自分じゃ無理だと思えば代理人を立てることも考えたけど、その代理人に伝えてほしい言葉が見つからない。お礼や現状、言いたいことはたくさんあったのに、上手く纏まらないというか、そうこう思ううち、代理人と彼女の距離が近くなるのは嫌だなと、どうかしているとしか思えないことを考え始めていることに、気づいて、一人で撃沈している時間が増えてきた。それも情けないために彼はより仕事を増やす。余計なことを考える時間を消そうと試みた。
 あっという間にマネージャーを三名雇うようになり、程なく社長業も復活させるようになると、祝福の日のひと月前には彼女に寄付してもらった額を、そのまま彼女に寄付できるほど溜め込むことができていた。
 食事は仕事以外の時は配給で済ませたし、住居も以前のように無駄に煌びやかな場所などを、選ばず小さめの部屋で済ませたことが良かったようだ。まだ彼は人々へ還元できるほどの資産を作れていないが、少なくともヨーグレイヒアの方へは返せる目処が立っていた。
 祝福の日を完全な休日と定めた彼は、やっと短い文章を彼女へ送る。

 親愛なるヨーグレイヒアへ。おかげさまで僕は元気です。あれから一年経ちますが、そちらはどうですか? と。

 何千文字も書いた後、ほぼ全てを消去して、五十字くらいに落ち着けた。このくらいの情報じゃなきゃ、彼にはとても重すぎて、自分の気持ちがパンクしそうで、彼女に迷惑をかけそうだったから。ウーシャンはそれでも緊張していたが、彼女からの返信は驚くほど早かった。
 そしてその文章の中に「遊びに来ないか」との誘いがあったから。飛びつくようで、飛び上がったウーシャンは、家の中を往復しながら急いでプレゼントを手配した。プレゼントというよりも手土産か。記録にはないだけで、きっと億年はあるのだろう、これほど長い時間が過ぎても受け継がれている求愛を、どの時代の男に聞いても理解されるだろう行動を、ウーシャンは取りながら、落ち着かない時間を待ったのだ。
 失礼にならないようにお昼過ぎに行くべきだろう。午前中からなんて自分しか嬉しくならないだろうし。ヨーグレイヒアが飽きないように若い子の話題も仕入れておこう。だけどあれだな、彼女は別に、流行なんて気にしない子だったよな、とも。

 ウーシャンの心配や不安をよそに、ヨーグレイヒアは、待てども来ない友人のことを心配していた。

 整った世界で特にやることもなくなると、彼女は次第に自堕落な生活を送るようになる。実は彼女が勝手に自分のことを自堕落だと思うだけで、それは生産性のある人間の生産的な日常だったが、たった一人の友人も失ったかもしれない彼女には、張り合いもなく覇気もない日々が続いている感覚だった。
 人恋しさは年々強くなる。それらはホルモンバランスの問題であり、どの時代の女性も振り回されている体の問題で、だからなるべく栄養素として変換されるものを選び、念入りに食べているけれど効果がいまいち分からないような日々だった。だからといって出て行かない彼女は彼女なりに世界を思い遣っていて、男性の高IQ保持者と異なり女性の高IQ保持者というのは、むしろ調和の方こそを取るという大昔の論文の、そのままを反映した無意識の行動をとっていた。まるで自分の存在が世界の毒になりうることを初めから知るように。
 気になっていたステイトの細かい部分も無くなってきて、だからこそ贅沢な気持ちで時間を持て余しているのかも、と、ヨーグレイヒアは考え直して手仕事を進めていく。
 そんなところに届いたようなウーシャンからの連絡だ。
 気長に待つと伝えていても、気配がないのは大分悲しい。でも自分が決めたことだし、と思い直して違うことを考える。元気になっているといいけれど。上手く行っているといいけれど。
 彼から連絡が来ないうちはジィアンムーには行かないと決めていたので、その日、メールが届いたのを知ると彼女の心は沸き立った。
 文章を見ただけで、その人の状態が分かる人がいる。
 ヨーグレイヒアはその手の人で、メールの文を見ただけで、ウーシャンがちゃんと元気であることを察したようだった。それからどうやら自分へと、コンタクトを取りたい様子が見えた。願ってもいない連絡だ。嬉しくなった彼女はすぐに、遊びに来て、とお誘いをした。
 でも、三十分待っても、一時間待ってみても、一向にポートが作動する様子がない。もしかして急用でもできたのかしら? と、彼を慮った彼女は別のことをし始める。
 前回飲み損なった紹興酒。未開封のお酒であるから問題なく飲めると予想して、食事の方に手を伸ばす。照り焼きのチキンを美味しいと言ってくれたから、記念の気持ちで同じ料理を作ることにした。
 彼が帰ってしまった後になんとなく、アジア料理に凝っていたヨーグレイヒアだ。エビが乗ったシュウマイや、ニラをたくさん入れた小籠包、キュウリの細切りを使ったサラダも用意する。彼が来るまでと思って作り始めた料理だが、あとは焼くだけ、蒸すだけ、や、混ぜるだけ、の状態になってなお、ポートが作動する様子がない。気落ちした彼女は気落ちしたことに気づかないまま、最近、特に熱心に取り組んでいた刺繍の続きに手をつけた。
 お昼を過ぎてようやく動いたポートの中に立つ人は、一年前より若々しくて別人のような印象を持つ。無意識に微笑んだヨーグレイヒアの心の中は、やはりウーシャンはこうでなくては、の喜びが満ちていた。けれど、彼はどこかよそよそしくて、落ち着きがない。それを別の方向に理解したヨーグレイヒアは、手土産として渡された花とジィアンムーの流行りだという、お店のケーキを受け取りながら気持ちをそっと動かした
 会いたいと思ってくれたことは本当だろう。でもこれはきっとお礼を伝えるための機会で、彼は別れも伝えるために考えあぐねているのだろう。うまくいっている彼にとったら自分のような人間は、不釣り合いというか、華やかさがずっと足りない。こんなことなら少しでも派手な服装にしておけばよかったと、らしくないことを彼女が思うくらいには。
 彼女はこういう、自分とは違う、華やかなウーシャンを見ているのが好きだけど、なんとなく「仲が良い」とは胸を張れない気持ちになった。だから彼が、友人をやめたい、もうここには来られないと言ったとしても、当たり前に許せる気持ちになっていた。飛び立つ不死鳥を見送る気持ちは、きっとこういうものなのだろうと小さな夢想に耽りながら。

「久しぶり。元気そうだね。これお土産の花とケーキ。もし嫌いなものがあったら僕の皿に乗せてきて。あ、でも昼食を食べたばかりだから、もう少し後に出してくれると嬉しいな」
「こんなに綺麗なお花をたくさん……ケーキもありがとうございます。わかりました。ではお茶の用意だけしてきます。コーヒーの方が良かったですか? ついでにお花もいけてきてしまっていいですか?」
「うん。嫌いな花じゃなかったらいいんだけど……君の動きやすいようにして。僕はコーヒーの方が好きだけど、どっちでもいいからね。休みの日なのに呼んでくれてありがとう」

 成熟した人間同士の穏やかな会話の中に、わずかな緊張が走ってみえる。好きなところに座っていてと言われたウーシャンは、彼女が消えたリビングを見渡して、彼女が作った美しい庭を眺められる大きな窓の、手前に置かれたソファに腰を下ろした。一年前より完成度が上がった庭は、それだけで一枚の絵画のようだ。木々の合間から見える奥の山や空も美しく、ヨーグレイヒアの世界だ、と思うとほっとする。
 程なくコーヒーを持って現れた彼女と視線が合うと、気恥ずかしい気持ちが復活したようだった。それを隠すようにして近況を報告していく。忘れてはいけない彼女への感謝と共に、一年前に貰ったものを返せるようになったこと。

「今だから分かるんだ。本当にどん底に居たんだと。変なタイミングで帰ってしまって申し訳なかったんだけど、あの時はすごく動転してて。決して君のステイトに引っ越したくなかった訳じゃないんだ、そこだけは信じて欲しいんだけど、うん、あの、なんて言うんだろう、年甲斐もなく恥ずかしくなっちゃったっていうか、さ……」

 一年間、素直な自分を出していくことを学んだ彼だ、彼女の優しい空気もあって、ここまでは容易に釈明できた。

「だけど、せめて君の前では取り繕いたかったというか……だから、その、ありがたくトークンを使わせてもらって……それで、その、今日、君に、返せる目処もついたから……」

 話を聞いたヨーグレイヒアは、あぁ、やっぱり、と頷いた。

「ずっと連絡を取らなきゃと、思っていたのは本当だよ。なのにこんなに遅くなって申し訳なかったよ。君さえ良ければ一年前に贈ってくれたトークンを、今日、返したいんだけど、どうだろう?」

 そして、対等な立場に戻りたい、と思ったウーシャンと、そして、関係は終わりだよ、と続くと思った彼女である。
 目の前でさよならを言われると鼻の辺りがツンとするけど、人間関係とはこういうものであるのかもしれない。幸いだったのはウーシャンが大人だったことで、喧嘩別れというものを経験しないで済むことは、平穏を望む彼女にとっても小さい傷で済むだろうと思われた。
 わかりました、と返した彼女の微笑みは柔らかい。人間性というものは辛い時や悲しい時、どれだけ優しい笑みを浮かべて穏やかに対応できるかが、大切だと信じてやまない彼女の対応だった。それは確かに間違ってはいなかったけど、人というのはそこまで高尚にできていない動物で、多分、泣き喚いて寂しいと叫ぶことが最も手っ取り早く誤解を解けて、彼に誤解を悟らせることができた行動だったかもしれない。賢い女性というのは可哀想な生き物で、手のひらから自分が一番欲しいと思った諸々を、零して生きていくしかない生き物なのだろう。愚かで図々しくて自分の利益しか追求しない、女が一番幸せに生きられる。
 でも、ここは少しだけ進んだ社会で、彼も彼女も少しだけ進んだ人間だ。彼女が自分のためにこしらえたステイトも、彼が息を吹き返したステイトも、自分以外の誰かのために存在するようでいて、自分達のためにこそ存在しているということを、たまには思い出すように、温かな歴史を刻むためのもの。
 彼女の了承が返るのに合わせ、彼は受け取ったトークンを、同じ「寄付」の名目で彼女の口座に振り込んだ。
 彼女と同じ過ちを犯したりはしない。
 彼はトークンの計算くらい、ちゃんとできる人間だから。

「あぁ、よかった。これで君と対等に戻れた気がする」

 ほっとした顔で零した彼は、やっと男に戻れた気がした。
 ジェンダーレスというかジェンダーフリーは前々からだが、それでもどこか忘れられない太古の生物の感覚が残る。行き過ぎた人類は一度その足を止め、差別と識別をようやく理解して、男女の能力差を問題と捉えずに、長所と捉えることにして、互いに役割分担するような穏やかな社会を形成してきてもいた。
 だからこれはウーシャンの間違った感覚という訳でもない。この時もまだ人類は、異性の前では、いい格好をしたいと思う気持ちを捨ててはいなかったのだ。

「?」

 と思ったヨーグレイヒアが、次に飛び出す別れの言葉を真摯に待っていると、挙動をおかしくした彼が「で、その、よかったら、もう一度じっくりと、君のステイトを紹介して欲しいんだけど」と呟いた。
 君の家でデートをしたい、とは、まだ素直に口にできない彼だった。だからヨーグレイヒアには何一つ伝わらない。「?」と思った彼女がそれでも快く了承すると、本当は手を繋ぎたい彼はとぼけた態度で腕を出し、分からないまま何かの「粋」かと解釈したヨーグレイヒアは、差し出された腕へと手を乗せて、鶏が駆け回る庭に出た。
 どこを見ても「綺麗だ」、「どうやって作ったの?」、「本当に君はすごいね」という褒め言葉だけが零されて、すっかり別れのことを忘れたヨーグレイヒアは、彼と一緒に自分の世界を夕方まで楽しんだ。
 ケーキもちゃんと味わったし、自分をアピールしたい彼は、今手がけている仕事のこと、これからやってみようと思う仕事のことを、彼女に説明しながら助言を求めてみたりした。彼女はやっぱり有能で、教えてもいないのに、その事業に手をつけるなら気をつけなければいけないところや、気掛かりなところについて聞いてくる。でもこうすればできそうですね、なんて簡単に答えを零し、ウーシャンの顔色を見て、素人考えですみません、と。
 そんなことはないよ、と返すウーシャンは、彼女の手料理と紹興酒を楽しみながら、結局この日は大事なことを言えずに終わる。健全な夕食の時間を大幅に超えてなお、ヨーグレイヒアを前にすると「君とベッドに入りたい」という簡単な十文字を、口にできずに苦しい時間だけが過ぎていく。
 遠い昔の童話である、シンデレラの気分になったウーシャンだ。一般人のままでは祝福の日以外、他のステイトに赴けないことを歯痒く思う。23時59分にジィアンムーのポートに立って、ステイト・マスターに戻りたい、という願望を強く抱いた。
 でも恥ずかしくて「好き」は彼女に伝えられなかったから、週末のメールのやり取りだけで我慢するしかなかった二年目。欲求というのは大きな力であって、取り扱いさえ上手にできれば成し遂げられないことはない。浮上したウーシャンは大欲も胸にして、ジィアンムーの財界を駆け上がる。二度目は脇目も振らないようなストイックな状態だから、余計なものに引っ張られずに随分楽に進んでいけた。
 2回目の祝福の日を迎え、今度は朝から彼女の元へ。歳をとって衰えを感じる、と零した彼女だが、彼の目には前年よりもずっと魅力的に映った人だ。そもそも三十代の前半なんて、彼からしたら花盛りもいいところ。おじさんでごめんと思いつつ、溢れ出る彼女の魅力を独り占めしたウーシャンだ。でも、君とベッドに入りたい、はこの年も口にできなかった。
 マスターの称号を手にしたら、絶対に言うんだ、と。厳しい経営者の顔をして、仕様もないことを考えていた彼のことに気づいたマネージャーは誰一人いなかった。共同経営者選びは前回よりも厳しく行う。AIの客観的なデータも今度は大切に扱った。何かあった時に切れるよう、次はその部分もしっかりと見る。初めは彼女からだったけど、いわば、親からもらった資産で生ぬるく生きていた昔の彼とは全く違う。今度は自分の力でのし上がったと思ったら、同じ業界人の筈なのに、前回よりも優しいというか、彼らが自分を見てくる視線が違うことにも気がついた。
 3度目の祝福の日だ。マスターに戻るには少し時間が早かったけど、ついに彼は我慢できずに、彼女に想いを伝えに行った。きっちりきめたスーツを纏い、定番のバラの花束で。ヨーグレイヒアはぽかんとしたが、君を口説ける言葉が見つけられない、そんな正直な言葉を聞いて、しばらくその場に固まっていた。恐る恐る近づいて、ゆっくりと腕に抱き、我慢ならない彼がそおっと彼女の唇にキスを落とすと、見開いた目のままでみるみる顔を真っ赤にさせた。
 悪いことをしているという罪悪感を持ちながら、リビングのソファーへと彼女を沈めていくと、嫌がる気配を見せないままに呆気なく繋がって、縋り付くようにウーシャンに身を委ねた彼女である。どんな顔をしていいのか分からないからあんまり見ないで下さい、なんて言われて、年甲斐もなくやる気をだだ漏れさせた彼だった。
 最中に小さく彼女が呟いたことだけど、どうしてこれをヴァーチャル・セックスと言うのでしょう? という謎を、特に謎と思わずに「どうしてだろう?」と流した彼だ。意中の女性を腕に抱いた男が、気にすることじゃなかったからだ。

 この数年後、ウーシャンは、老齢のマスターの一人から、指名と資産の一部譲渡を受けて、ジィアンムーのマスターの一人に戻る。
 ヨーグレイヒアは相変わらず自身のステイトに留まったけど、遠隔で抱き合える機械が彼からすぐに贈られてきて、毎晩とはいかなかったけど就寝を共にするようになっていた。自分の両親もこうだったのかと想像すれば、どこか恥ずかしいような、不思議な気持ちになっていく。
 これこそがヴァーチャル・セックスなのでは……と疑問を持った彼女であるが、小さな世界に広い世界が反映された世界であるのを、知らない人類が数多の夢を見る世界。私たちは卒業です、との言葉を零した両親が、向かった世界を知らない世界で彼女は今日も、自分が理想とする穏やかな日々に華を添え、愛しい人と共に生きていくのだろうと思う。
 そうして繰り返される人類の愛の物語。
 マスターになったウーシャンが、君との子供を持ちたい、と。遠くに居ながら隣に横たわる彼女を抱いて、小さく零した記録を刻み。

 ネットワーク・ステイトは今日も人類の一つの方舟として、世界の片隅で歴史を刻むのだ────。



短編小説「ヨーグレイヒア」 fin.

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